2021年5月9日(日)主日朝礼拝説教

『生きている者の神』

出エジプト記3章14~17節、マタイ福音書22章23~33節

井上 隆晶 牧師

①【この世の信仰者であるサドカイ人】

ユダヤ教の中にはサドカイ派とファリサイ派という大きな二つのグループがありました。このサドカイ派というのは、お金持ちで、広い土地を持ち、身分が高く、神殿の大祭司などの高位職を占め、国の指導者たちでした。彼らは旧約聖書の中のモーセ五書だけを認めており、復活を信じていませんでした。モーセ五書には直接「復活」について書かれている個所はありません。復活信仰が現われてくるのは、かなり後の時代になってからです。復活を信じていないというのは、この世がすべてということです。この世に目が向いているのであって、この世の報いを求める信仰ということです。

●大体宗教というのは、富と権力と高い地位を得ると必ず堕落します。中世のローマカトリック教会も、ロマノフ王朝時代のロシア正教会もみな堕落しました。教会が堕落すると必ずその反動で、神様は宗教改革を起こし、フランチェスコのような乞食坊主たちの修道会を起こします。それはイスラエルでも同じでした。先週、ゼファニヤ書を読みましたが、王室や上流階級の罪を非常に細かく指摘しているのを見ると、彼は王族の血を引く人間だったようです。彼は「主の日」が必ず来ると語ります。「主の日」とは神による裁きの日のことです。TVで爆買いをする人たちを見て思いました。今でも70億人もの人が電気のない生活をしているのに、こんな生活をして恐れないのか、いつか必ず裁かれると。「主は幸いをも、災いをもくだされはしないと言っている者を罰する」(ゼファニヤ1:12)と書いてありました。神様は何もできないさ、神様は何も見ていないし、聞いていない、と神を恐れない者は必ず裁かれるということです。そして主の裁きの日には「残りの者」が救われるとも書かれていました。この「残りの者」というのは神を頼みとし、神に期待して信仰を失わなかった人たちのことです。私たちもこの「主の日」を目指して生きているのです。
もともとキリスト教というのは貧しい者、無学な者、奴隷たちの宗教でした。この世に希望を持てなかった人たち、この世で虐げられ、悲しみを知っている人たちが神の国に憧れたのです。彼らはこの世で報われなかった人たちです。山上の説教の始めに八つの「~の人は幸いである」というのがありますが、これはこのような人たちの信仰を言ったものです。彼らこそ「残りの民」なのです。この世に期待している人は、神の国を憧れません。この世に満たされている人も、神の国を熱望しません。目が下を見ていて上を見ていません。この世を見ていて神の国を見ていません。以前、堀江明夫先生をお呼びしましたが、先生が「讃美歌484番の『主われを愛す』の3番に、御国の門(かど)を開きてわれを招きたまえり、勇みて登らん、という歌詞があるけれども、そういう気持ちになれない」と言われていましたが、それは今の教会がこの世的な信仰になっているからです。

そんなサドカイ派の人がイエス様に近寄ってきて尋ねました。「モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。さて、私たちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちの誰の妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです』」(24~28節)これはレビラト婚といわれる規定で、申命記25章に出てきます。つまり跡継ぎを残さないで死んだ場合、亡き夫の兄弟が残された妻と結婚し子孫を残してその家が絶えないようにするというものです。復活があったら来世で混乱して困るではないか、だから復活などないのだというのです。それに対してイエス様は「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」(29節)といわれました。マルコでは「あなたたちは大変な思い違いをしている」と2度繰り返されています。彼らは復活というものを誤解していたようです。この世のものが来世でもそもまま延長すると思っていたということです。ではイエス様が言われた復活とはどういうものなのでしょう。

②【どのような姿で復活するのか】

イエス様は彼らに言われます。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(30節)

●4世紀のヒッポのアウグスティヌスは『神の国』という本を書いていますが、その13章から17章まで「流産した子に復活はあるのか、死んで復活した幼児の身体はどのようか、男女は復活しても男女なのか、復活した者はみな主の身体に似るのか」など様々なことを書いています。少し引用すると「各人は年老いて死んだとしても青年時代に持っていた大きさの身体を、あるいは早死しなかったならばそこまで伸びたにちがいない大きさの身体を受け取るのである。」「復活のときには精神であれ、身体であれ、弱さをとどめ残しはしないからである。」この世の学者も大体30歳をもって人間の成熟の年としているから、その年代になるだろうと言っています。

イエス様はここで人が復活すると、もう結婚するようなことはなく天使のようになるといわれました。パウロは「朽ちるものは、朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(Ⅰコリント)といっていますから、めとったり嫁いだりするような結婚関係は朽ちるものだということになります。向こうの世界にはないのです。朽ちるということは不完全ということです。男女の性についていえば、4世紀のニュッサのグレゴリオスや6世紀のマキシモスなどは、「男女の性という区別は、罪を犯すのを予見された神が付け加えられたものであって、罪を犯した後に決定的になったものであり、神の像とは関係のないものである」といっています。面白いと思います。神学する余地がまだ残されています。結婚は完全なものではなく、男女の性も完全なものではありません。結婚しない人もいますし、性に分けられない人もいます。それらはこの世での一つの役割だと思います。そのように考えれば楽になる人も多いのではないのでしょうか。 もともと地上の結婚という男女の結びつきは、神と人間の結びつきのイメージでした。地上の結婚は、天上の結婚の雛型なのです。神は人間にとって花婿であり、人間は神にとって花嫁なのです。私たちが神と結ばれること、これが永遠の生命であって、復活というのです。復活の時には、すべての人間は神と結びついて一体となり新しい花婿・花嫁という関係になるのであって、この世での結婚関係は消滅するのです。すなわち天使のように神の命によって生かされている者となるのです。でもこの世での記憶は必ず残りでしょう。イエス様は復活した後、弟子たちと親しく交わりました。だから来世に行っても夫婦は分かります。
またパウロが「蒔かれる時は卑しい者でも輝かしい者に復活し、蒔かれる時には弱いものであっても強いものに復活するのです。自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(Ⅰコリント15:43~)と言っていますから、復活とは命の第二の段階なのであって、戻ることではなく、進むことだということが分かります。一つの命が消えることなく変容するのであり、新しいものが造られるということが分かります。

③【神と一体である者は生きている】

そしてさらに「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(31~32節)といわれました。引用されているのは「燃える柴」の個所です。神はモーセに現れ「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と自己紹介されました。(出エジプト3:1~)神は、モーセに死者である彼らの名前を上げ、今も彼らと関係を持っていると言われたのです。彼らは生きており、今も神と交わって生きているのです。生命の源であってその創り主が私の中におられるならば、どうして死が私を支配することが出来るでしょう。私が神の花嫁であって神と一体であるならば、私と神の間に死が入っても、神がその死を取り除き、私を生かして下さるでしょう。

●聖セルギー修道院のキリール長老はこう言っています。「私たちは死は存在しないのだということを覚えておかなければなりません。死に行く人を見る時に、ただ肉体の死に対して接しているのだということを覚えておかなければなりません。人は死ぬことはありません。人はただしばしの間、自分の肉体とこの世から別れているだけであって、見えない世界に移り住んだのです。神のもとには死者はいません。なぜなら「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」(ルカ20:38)だからです。救世主のひと言で全死者は起き上がり、全員が未来の命のために復活する時が来ます。」

この世の人は、死者が神のもとに行くのであって、神のもとには死人がいると思っています。しかし聖書は「神のもとには生きた者しかいない」といっているのです。

●逢坂元吉郎はこう書いています。「甦りとは来世において始まるのではなく、この世において既に体験されるものである。…信者とは、単に心にだけ主を信じている者ではなく、主の甦りの体(聖体)に与る者であり、主を初穂として主と共に甦る種を持つ者である。…既に、種は確実に与えられている。…この甦りの体が分からなければ、キリスト信者は人に馬鹿にされてよろしい。しかし、これを解するが故に、逆に世を奪う者である。人間は甦るために、この世に生まれて来た者である。」

5月5日の夜、ペットのワンちゃんが亡くなりました。苦しそうだったので薬を飲ませたら、目の前でそのまま息を引き取りました。休みの間だったのでみんなで送ることが出来ました。この子が居ることで笑い、慰めと癒しをもらいました。私たち家族の罪も黙って負ってくれました。神様はこの子を送って私たちを助けてくれました。まさに天使でした。ペットの死がこんなに悲しいとは思いませんでした。この子中心の生活だったのでまるで子供を失ったようで心に穴が開いてしまいました。共に過ごした日々が天国であったことに気づきました。作家の伊集院静さんが「子どもの教育で大切にしているのは、他人の痛みが分かること。自分以外の人の痛みが分かるようになれば、教育の8割は終わり、それが一番大事なこと。」といっていますが、悲しい思いをすることで、親しい人を失った人たちの悲しみや寂しさ、病気や障害を負う人たちの痛みを少しは分かるようになったかもしれません。この世で大切なものを失えば失うほど、人の心はだんだんと天国に近くなるようです。
私は天国は必ずあると信じています。そうでなければ愛する者たちとの再会がなくなります。イエス様がいつの日か必ず、すべての人の目から涙を取り除いて下さいます。それを信じて生きていきたいと思います。