2021年5月2日(日)主日朝礼拝説教

『私に従いなさい』

詩編130篇1~8節、ヨハネ福音書21章15~19節

井上 隆晶 牧師

①【正しい人は一人もいない】

火曜日の朝の祈りの時に讃美歌497番「この世のつとめ」を歌いました。その中の歌詞に「この世のつとめ、いとせわしく、人の声のみしげきときに、祈りにしばし逃れゆきて、われは聞くなり主のみこえを」とありました。この世は「人間の正しさ」で溢れています。誰もが自分の正しさを主張し、人の失敗を責め、自分の賢さを誇ります。まさに「人の声のみしげき」です。人は黙りません。だからこの世はとても疲れます。しかし聖書は「正しい者は一人もいない」(ローマ3:10)と告げます。礼拝堂に帰って来ると凛とした静けさがあります。礼拝とは、人間が沈黙して静かに神の言葉に耳を傾けることです。つまり、誰も自分の正しさを主張せず、誰も裁かず、ただ神の言葉を聞くことです。天国に行って、もし私たちが自分の正しさを主張しあうなら、それは騒がしく、この世と同じであって天国ではありません。ちょうどその日に読んだ聖書の個所に、神様が私たちに律法(十戒)を与えたのは、それによって「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるため」(ローマ3:19)とありました。聖書を読む者は「自分は正しくない者である」と告白し、黙らなければなりません。ちょうどそれと同じような出来事がペトロの上に起きました。

②【自分の本当の姿を知ること】

ガリラヤ湖畔での朝食がすむと、イエス様は口を開いてペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」(15節)と尋ねられました。なぜこんなことを聞かれたのでしょう。それはイエス様が十字架にかかる前に、ペトロが「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)と言ったからです。それに対してイエス様は「あなたは今日、今夜、にわとりが二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(同14:30)といわれると、ペトロは力を込めて「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同14:31)と言い張りました。しかしこの後、自分の命の危険を感じた時「そんな人は知らない」と三回嘘をつきイエス様を裏切ったのです。三回「そんな人は知らない」と言ったので、ここでも三回「私を愛しているか」とペトロに問われたのです。
イエス様が問われた「わたしを愛しているか」の「愛」という単語はギリシア語で「アガパオー」といって、神様だけの愛に用いられる言葉だといいます。報いを求めない犠牲の愛です。だからイエス様は「ペトロよ、お前は今も他の弟子たち以上に、自分の命を犠牲にしても私を愛するか」と尋ねたのです。それに対してペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが御存じです」と答えました。ペトロの答えた「愛する」はギリシャ語で「フィレオー」という単語であって家族や友人を愛する愛、自分の好きな者しか愛せない愛、自分に報いてくれる人しか愛せない愛です。この後イエス様は二回、「わたしを愛しているか」という同じ質問をされますが、三度目は「フィレオーの愛」で愛しているかと問われました。ペトロは悲しくなって最後に「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます」(17節)と答えました。ペトロは、自分にはもう報いを求めないような立派な愛はないことを認めざるをえませんでした。ペトロは初め、自分は他の弟子とは違う。自分は決して失敗はしない、と思っていました。彼は本当の自分を知ることが必要でした。だからあえて神はこの失敗をペトロにさせたのです。人は失敗をしなければ謙虚にならず、本当の自分を知ることができないからです。ここではペトロは多くを語りません。黙ります。自分の無力を知ること、沈黙すること、これがキリストに従う者にとって必要なことなのです。

●作家の五木寛之さんがこんなことを本に書いていました。「世界文明のバイオリズムのなかで考えると、これからは加速から減速へ向かうというのが明らかな時代の流れです。いろんな面で暴走にブレーキをかける知恵が必要になってくる。バブル経済というのも、高度成長の暴走だと考えることができるでしょう。」 「癌の病理学の第一人者である小林博(ひろし)という方が、人間の体を作っている50兆個の細胞は、すべて老いてゆくものであり、その傷ついて老いてゆく細胞たちを、何とかささえてゆこうという働きから癌というものが発生するのではないかといっています。古い細胞が死に、新しい細胞が生まれることで生命を維持しているが、分裂能力が衰えた細胞の周囲にそれをバックアップしようという善意のボランティアが出てくる。彼らは衰えた細胞をカバーしようとしゃにむに頑張って、分裂に殖えてゆく。あげくに止まらなくなって暴走してしまう。癌の発生のメカニズムは二つあって、アクセルの故障とブレーキの故障だというのです。必要なのは減速させる力です。」

ペトロは最初、暴走していました。上昇志向でした。しかし彼の失敗はそれを止めました。減速したのです。肩の力が抜けました。「無学な普通の人」(使徒4:13)であることにとどまります。人が神になろうとすることがキリスト教の最大の罪なら、人が弱い人としてとどまることは本当の人になることなのです。

③【欠けのある愛で、隣人を愛しなさい】

主は続けてペトロに対して「私の小羊を飼いなさい」(15節)「私の羊の世話をしなさい」(16節)「私の羊を飼いなさい」(17節)と3回言われました。羊とか小羊というのは「信者」さんのことです。「飼う・世話をする」というのは羊を教え、養い、育て、守ることを意味しています。一言でいうなら愛するということです。イエス様がペトロに求められたのは失敗をしないことではなく、限界ある愛かもしれないけれども、その欠けのある愛でいいから隣人を愛しなさいということでした。キリストを愛しているなら、信者さんを愛しなさいと言われたのです。具体的には「羊飼いになれ」といわれたのです。ペトロはここで羊の立場から羊飼いの立場に変えられたのです。牧師というのはここから来ています。羊を牧する人という意味です。

●私が信者であったのは、大阪西野田教会での5年間だけでした。その後、牧師になりました。牧師になると意識を変えなければなりませんでした。群れの模範にならなくてはならないと思いました。牧師というのは教会の顔なんだ、牧師が不機嫌なら、新しく来た人は教会はそういう処だと思います。牧師が冷たければ、ああ教会やキリスト教ってそういう所なんだと思われます。キリストを背負っているのです。つまずかせてはいけないと思いました。どんなにしんどくても休んではいけない、逃げてはいけない、どんな人が来ても受け入れ、向き合わなければいけない、腹が立っても口に出してはいけない、と思って必死にやってきました。でもできませんでした。病気になり牧師館からマンションに逃げました。電話が来ても無視するようになりました。だんだん弱くさせられ、前のように必死に何かを求める思いがなくなりました。集めても散らされました。自分は愛のない者であること、自分は人を救えない者であることを教えられました。

この後、主はペトロに言われます。「あなたは若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯をしめられ、行きたくないところへ連れていかれる。」(18節)「両手を伸ばして、…行きたくないところへ連れていかれる」というのは、ペトロがやがて十字架に手を広げられ殉教することを意味しています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとしてイエスはこういわれたのである。」(19節)とあります。十字架という死が、神の栄光を現すものとなるというのです。
「行きたい所へ行っていた」信仰のスタイルから「行きたくないところへ行く」という信仰のスタイルに変わるということです。能動から受け身の信仰です。したいことをする信仰から、したくないことをさせられる信仰です。考えてみると、イエス様の生涯もそうでした。奇跡を行うことから無力な者へ、大勢の人が従った時から、皆が散って行くことへ、栄光から十字架の敗北へ、称賛から嘲笑へと向かう道でした。彼と一体である私たちも同じ運命を負います。ペトロは徐々にキリストに似た者になっていきました。

五木寛之さんがこんなことを本に書いていました。「ルネサンス以来、人間は努力と個性をのばすことによって、あらゆることが可能であると考えてきたけれど、それは幻想にすぎない。人間には不可能なこともあり、すべてが自由なわけではないことが、いま明らかになろうとしているわけです。だからといって、それは人間にとって希望がなくなるということでしょうか。ぼくは決してそうではないと思う。たとえば、足もとに目を落としたとき、そこにくっきりした濃い黒い影が伸びていれば、自分が背後から強い光に照らされているということに気がつくでしょう。上を見ることだけが光を探す手段ではないのです。同じように、胸を張って遠くを見ることだけが希望を見つけることではない。悲しい時やつらいときには、うなだれて肩を落とす。深いため息をつく。そうすることによって、自分を照らす希望の光の存在を、影が教えてくれるということも、ありうるのではないないでしょうか。」

新型コロナ感染症は、全世界にストップをかけました。暴走を止めて減速させ、人間はこの世界をコントロールできない者であることを教えました。何もできないのです。動けないのです。流れないのです。教会も弱くなってしまいました。私たちは自分の歩みを止められたのです。しかし人類の影を見た時、その背後からキリストの暖かい光が照らしていました。失敗しても変わらないキリストの愛がペトロを照らしていたように、私たちも同じ愛が今日も照らしてくれています。安心して失敗してもいいのです。安心して弱くなってもいいのです。なぜなら、十字架という死が、神の栄光を現すものとなったように、私たちの失敗、弱さは必ず神の栄光を現すものとなるからです。私の闇と陰よ、どんどん濃くなれ。それによってキリストの私に対する愛と光と命が益々輝きますように。