2021年4月25日(日)主日朝礼拝説教

『湖畔の朝食』

ヘブライ10章32~39節、ヨハネ福音書21章1~14節

井上 隆晶 牧師

①【何も捕れない漁】

ヨハネの福音書は20章で終わっています。21章は追加された部分と言われています。追加されるには何か目的があるはずです。イエス様は復活した後、エルサレムとガリラヤでその姿を現わされました。20章はエルサレムで現れたことを、21章はガリラヤで現れたことを語っています。14節に「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのはこれで三度目である」とあり、ヨハネ福音書では三回現れたことを書いています。一回目はマグダラのマリアや婦人たちに対して、もう一回目は弟子たちとトマスに、そして三回目はこのガリラヤで漁の時にです。
弟子たちはエルサレムから故郷のガリラヤへ帰ってきました。弟子たちはディベリアス湖に漁に出かけました。ガリラヤ湖がティベリアス湖と呼ばれるようになったのは1世紀後半からです。ヘロデ王が湖の西岸にティベリアという町を造ったからです。ペトロが「私は漁に行く」というと、他の六人の弟子たちも「私たちも一緒に行こう」とついてきました。ペトロ、トマス、カナのナタナエル、ゼベダイの子たち(ヨハネとヤコブ)それに他の二人です。しかしその夜は何も捕れませんでした。何も捕れない漁には、象徴的な意味が込められています。かつてペトロは、このガリラヤ湖で何も捕れない漁を経験し(ルカ5章)、イエス様の言葉に従って大漁の奇跡を体験した後、「私について来なさい。人間を取る漁師にしよう」(マルコ1:18)といわれ弟子となりました。ですから「何も捕れない漁」というのは、「信じる人がなかなか起こされない」という当時の迫害の中にある教会の姿を象徴していると思われます。
夜が明けたころ、イエス様は岸に立っておられましたが、弟子たちはそれがイエス様とは分りません。イエス様は彼らに声をかけます。「子たちよ、何か食べるものはあるか。」弟子たちは答えます。「ありません」イエス様はいいます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ。」(5~6節)ある学者は「舟の左側とはユダヤ人を意味し、右側とは異邦人を意味する」と解釈しています。だから「異邦人に伝道してごらんなさい」という意味になります。彼らがイエス様の言われる通りにすると153匹もの魚が取れて、網を引き上げられないほどだったといいます。4世紀のヒエロニムスという人は、これは地中海のすべての魚の種類であり、あらゆる人が救われるという意味だと解釈しました。153匹もの魚が取れたのに「網は破けていなかった」というのは、どんな人でも受け入れ、何があっても破れない教会を意味しています。舟にいる弟子たちは岸にいるイエス様と対話を繰り返しています。私たちが聖書を読むとき、私たちはキリストと対話をしているのです。

●ヒエロニムスは「私たちは聖餐の神秘においてキリストの肉を食べ、キリストの血を飲むが、聖書朗読においてもやはりキリストの肉を食べ、キリストの血を飲むのである。私にとって福音書はキリストの体であると思う。」「あなたが祈る時にはあなたが花婿であるキリストに語りかけているのであり、あなたが聖書を読むときには花婿キリストがあなたに語りかけておられるのである。」といっています。

祈りはイエス様に私たちの必要や願いを聞いてもらうことですが、答えは聖書の言葉によって与えられます。ですから聞く力が必要です。何かを与えてほしいと願っても、その日開いた聖書に「私の恵みはあなたに十分である」というパウロへの言葉を聞いたなら、これは私に言っておられるのだと聞くのです。
私たちがここから学ぶことは、人間の力では人は救えないということです。いくら説教が上手でも、聞いている人が信じるわけではありません。いくら立派な教会堂が建っても、様々な福祉活動や芸術活動をしても、信じる人が起こされるわけではありません。パウロがフィリピの川岸で語った時、紫布を商うリィディアという婦人が話を聞いていましたが「主が彼女の心を開かれたので」(使徒16:14)彼女は信じる者となりました。神が働かなければ信者になれないのです。

●先日、教区へ提出するための表を作成するために、信徒さんの誕生日を調べようと思って来会者名簿をめくっていました。面白いことに今、教会に来られている人たちは、来た時が集中しているのです。神様が信じる者を遣わしたとしか思えないのです。

●マカーリィは「人間はどんなに偉大で強力でも、神が彼らにさせてくださることしかできません。それ以上のことは何もできません。」といっています。

いくら頑張っても伸びない時は伸びないし、何もしなくても伸びる時は伸びるのです。すべてはキリストがなさいます。救いは神様の業なのだということだと思います。私たちはただ神様が用いられる道具なのです。

②【何のために伝道するのか】

「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(9節)とあります。一晩中苦労して魚を取る必要などありませんでした。既に陸にはパンも焼いた魚も用意してあったからです。では何のために漁をさせたのでしょう。つまり私たちは何のために伝道をするのでしょう。「神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになった」(Ⅰコリント1:17)とパウロはいいました。聖書は「選び」ということをいいます。信じる者は、予め神によって選ばれています。神は予知されるがゆえに選ばれます。それは神様の仕事をさせるためです。でも誰が選ばれているのか分かりませんから、とりあえず誰にでも宣教するのです。語ってみたら、人が信じた、神の言われる通りになった、神様の言葉は嘘ではないという体験をすることができます。
何のために会堂建築をするのでしょう。建物が狭く不便だから建て替えるのではなく、会堂建築を通して「神様が生きておられることを知る為」なのではないでしょうか。人間の業績として何かを残すためではなく、神様の力を体験する為なのです。ひと言でいうなら「神を知る」ということです。建てることを目的としたら、立派な会堂ができたらそれで終わりになります。がらんとした礼拝堂に僅かな人だけがいるということになるでしょう。そういう教会を見てきました。

●ある修道士がいっていました。「私にとってアトス山はエレベーターのようなものです。私はエレベーターの中に滞在しません。私は天に行くためにしか、ここにいないのです。私はエレベーターの中で眠りません。私は戸口で待っておられる方のことを思っているのです。」アトス山というのは修道院のある山のことです。イエス様は「私には枕する石さえ持っていない」と言われました。イエス様にとってこの世も、憩いの場ではありませんでした。礼拝堂もエレベーターのようなものです。神に至るための道具に過ぎません。だからエレベーターを金で作っても意味がないのです。天国に行ったら必要なくなるからです。

私たちは神が本当におられるという生きた神の業の証人にならなければなりません。人生とはそのためにあります。イエス様は「あなたがたが出かけて行って実を結び」(ヨハネ15:16)と言われましたが、み言葉を実践することによって、神を知るという実を結べると言われたのです。「水を汲んだ召使たちは知っていた」(ヨハネ2:9)という言葉も、み言葉に従った者だけが、キリストが誰であるかを知ることができるのです。キリストを知る楽しさを体験しましょう。

【天国の岸辺での朝の食事(聖餐)】

イエス様は「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と言われると、弟子たちは誰もあなたはどなたですかと尋ねませんでした。みんなイエス様だと知っていたからです。続けて「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」(21:13)とあります。「イエスは来て」って何でこんなことを書いているんだろうと思い、他の訳を調べると「イエス進みて」「イエスは近づいてきて」という訳がありました。イエス様の方から食べ物を勧めて下さったということは、空腹を心配してくれ、労をねぎらい、受け入れてくれたということでしょう。パンと魚で思い出すのはガリラヤで行った5千人の給食の奇跡です。あの時は地上での食事を主が用意してくださいましたが、この岸辺での食事は、天国での食事を主が用意してくださっているように感じます。面白いことに、聖書は取って食べてはならない「善悪知識の木」の実を食べる物語で始まり、ヨハネ福音書は「イエス様の手からいただくパンを食べる物語」で終わっています。イエス様は最後の晩餐の時、弟子たちに「取って食べなさい」(マタイ26:26)と命じられました。「食べる」とは「生きる」ということですから「生きなさい」という命令になります。ヨハネ福音書が食べる物語で終わっているということは、イエス様から命をいただいて生きる、イエス様によって生きることが、人生の目的だということでしょう。私たちは天国で、新しい命を用意してもらっているのです。皆さんが教会に来て礼拝をし、み言葉を聞き、主の食卓を囲む時、天国の岸辺に上がって、イエス様から命をもらう先取りをしているのです。神の言葉と聖餐こそ本当に人を活かし、元気にするものです。主の日毎にイエス様が教会という天国の岸辺で新しいいのちを用意して待っていてくださるのです。

●ある求道中の方がいっていました。「日曜日にみんなで集まって礼拝をしている雰囲気がものすごい明るいんです。帰る時には心が軽やかになります。何かわからないんですけど元気になるんです。」私はその方に「礼拝をすると、神様の見えない光を受け、神様の命をいただいて帰るからです」といいました。新約、旧約というのは聖書を初めて読む方には意味か分からないようです。よく「古い訳」「新しい訳」だと思っている人がいます。私はこういいました。「それは神様の約束という意味です。私たちはただ願い事をしているのではありません。聖書には神様の約束がたくさん書かれています。私たちは約束を信じ、それに期待して生きているのです。」

イエス様は、人間の悲しみと苦労を知って下さり、それに報いて下さいます。天国の岸辺で神の子たちを待っていて、彼らの何も取れなかった漁、つまり辛かった人生、悲しかった人生、努力が報われなかった人生、夢が失われた人生、悔しかった人生、…をいたわり、彼らに永遠の命を下さいます。私の命の心配はイエス様がしてくださるのです。キリストはあなたを生かしたいのです。「取って食べなさい。」この言葉を味わい、平安な心で生きましょう。