2021年4月18日(日)主日朝礼拝説教

『本当に主は復活して』

ルカ福音書24章13~35節

井上 隆晶 牧師

①【聖書の読み方がズレている人間】

今日はエマオという村に向かって失意の旅をしていた弟子たちに復活したイエス様が姿を現したお話をしましょう。イエス様が復活した日曜日のことです。二人の弟子がエルサレムを後にして、エマオという村に向かって旅をしていました。エマオはエルサレムから西へ約11キロ離れたところにある村です。弟子の名前は、クレオパとルカだといわれています。彼らがなぜエマオに向かったのかは分かりません。でも西というのは日が沈む方向ですから、何か力が抜けた感じがします。キリスト教では教会は東に向かって建てられました。義の太陽であるキリストを仰ぎなさいという意味です。西というのは東に背を向けた方向ですから、キリストに背を向けた感じがします。スイスの画家ロベルト・ジュントが1877年に描いた有名な絵がありますが、何か寂しげです。
そこへイエス様が旅人の姿で近寄ってきて彼らと一緒に歩き始めたのですが、彼らの目は遮られていてイエス様だとは分かりません。イエス様は「歩きながらやり取りしているその話は何のことですか」と聞くと、二人は暗い顔をして立ち止まり、イエス様が殺されてしまったこと、三日目に墓に遺体がなかったこと、天使が現れ「イエス様は生きている」と言ったことなどを話しました。彼らは起こった出来事の意味が理解できていません。目の前の暗い出来事に心が押しつぶされ、完全に希望を失っています。「この方は…力のある預言者でした」(19)「望みをかけていました」(21)すべて過去形です。ああもうすべては終わった、希望は失われた、何をしても無駄だったという嘆きが伝わってきます。
そこでイエス様は弟子たちに「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」といわれ、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」(25~27節)ました。「モーセとすべての預言者から初めて聖書全体」というのは、旧約聖書のことです。つまり旧約聖書全体からメシアについて書かれていることを話されたのです。聖書にはメシアは苦しみを受けて栄光に入ると書いてあり、その通りになったではないかというのです。

●カリストス・ウェアは「聖書には一貫した全体性があります。その一貫性の軸となり全体性の骨組みとなるのはキリストというお方にほかなりません。キリストは聖書の最初の一行から最後の一行まで、全体を縫い合わせている糸のようなものです。」と言っていますし、アレキサンドル・シュメーマンは「クリスチャンというのは、眼を注ぐ所にはどこにでもキリストを見い出し、そのキリストのうちで喜びにひたることができる存在だ」といいました。

弟子たちもユダヤ人たちも聖書を読んでいたのですが、理解できていませんでした。または個人の力では聖書を読む限界があるというということなのです。イエス様に(教会に)意味を教えてもらって初めて分かるのです。「聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)と弟子たちが言ったように、聖書の言葉の意味が分かった時は「ああそうだったんだ」とすべてがつながって腑に落ち、希望が出て来て嬉しくなり、心がワクワクしてくるのです。聖書の正しい読み方というのはそういうものです。エチオピアの宦官もイザヤ書53章の苦難のメシアの個所を読んでいましたが、誰の事を言っているのかさっぱり分かりませんでした。フィリポが近づいて行って「読んでいることが分かりますか」と聞くと「手引きしてくれる人がいなければどうして分かりましょう」(使徒8:31)と言い、フィリポの解き明かしによってはじめてイエス様の事だと分かりました。神のものは同じ神でなければ分からず、神の聖霊を持っている人が手引きしなければ分からないのです。同じ聖書を読んでいても、聖霊を持っていない者が手引きすると大変なことになります。

●受難集の土曜日の礼拝が終わった時、一本の電話が鳴りました。ユーチューブで流している復活祭の礼拝の勧誘でした。後で調べたら「グッドニュース宣教会」といわれる韓国の異端のキリスト教の勧誘でした。セウォル号事件で有名になった「キリスト教福音浸礼会」、「大韓イエス教浸礼会(命の御言葉宣教会)」と並び、この三つの教派は属に「救援派」と呼ばれます。教会から離れたある米国の宣教師から教わった三人が建てた教団ですが、同じ思想を持っています。「救われていますか?」と聞いてきて、「救いを知る(グノーシス)」ことが救いであって、救われていると信じたら殺人を犯しても罪にあたらないと解釈します。

統一教会やエホバの証人も変な解釈をします。聖霊を持っているかどうかがその分かれ道になります。 聖書にはちゃんと神様の救いの計画が書かれてあり、必ず書かれた通りになります。いろんな問題が起こってくるかもしれないけれども、それは神様の計画の中にすでに組み込まれていることであって、どんな悪い出来事も神様の計画を止めることはできません。イエス様がこう言われたことを思い出してください。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても慌ててはならない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。…方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(マルコ13:7、8)禍も苦難もすばらしいものを産み出す為のものだというのです。絶望する人というのは、悪い出来事、悲しい出来事で心や目が止まっていて、その向こうにある栄光の業が見えていないのです。将来を信じられず、神を信じられず、希望を失うから人は暗くなるのです。聖書をよく読んで、神様の栄光の約束を信じましょう。

②【イエス様の聖餐式によって目が開く】

やがて彼らは目的の村につきますが、イエス様は「先へ行こうとされる様子だった」(ルカ24:28)と書かれています。そこで二人は「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」(29節)といって無理に引き止めました。ここには「一緒に」「共に」「泊まる」という言葉が繰り返されています。イエス様は、ある所まで来ると、あなたの意志を求められます。あなたが「共にいてほしい」と願えば共にいてくださいますが、あなたが求めなければ前に歩いて行ってしまいます。救いは、本人が「欲しい」と思わなければ手に入りません。
「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(30~31節)とあります。「パンを取り」「賛美の祈りを唱え」「裂き」「渡す」この四つの動作は聖餐式と同じです。聖書解釈はまだ人間的です。人によって解釈は変わり、その日の調子によっても変わります。でも聖餐は神の定めたものであり、神の約束に重点が置かれており、変わらない恵みを伝えるものです。私たちの救いの為には変わらないものが必要なのです。その聖餐によって目が開きます。私はいつも聖餐式でパンとぶどう酒をいただいた後に、その日の説教で一番言いたかったことが分かります。説教だけでは半分です。聖餐式があって完成します。
パンを裂くのは主人の仕事であって客人の仕事ではありませんが、ここではイエス様が主人のようにパンを裂いて与えています。それはイエス様があなたの主人であり、あなたを生かすことを教えているのです。あなたは自分で生きるのではなく、キリストによって必ず生かされます。また聖餐は特にパンとぶどう酒が体の中に入ってきて一体になるので「私の中にキリストがおられる」と感じます。あなたは一人でこの世を旅するのではなく、キリストと一体になって旅をしているのです。 彼らの目が開くと、イエス様の姿は見えなくなりました。見えなくなったということは、「見えなくても良い」ということです。イエス様というお方は、彼らが勝手に操作できない方、支配できない方であることを示すためです。彼らはすぐにエルサレムに引き返します。西から東へ向きを変えます。つまり神の都へとUターンします。それは彼らが再び信仰の旅を始めたことを現しています。するとそこには11人の使徒と仲間たちの群れである教会があり、「本当に主は復活された」と証しをしていました。神を信じる仲間たちがいたのです。

●先日、復活の話をした時に、ある方が「来世ではどんな姿になるんですか?夫婦はどんな形で出会うのですか?」と聞いてこられました。私は、体は栄光の体になって、この世での弱さや傷や病はなくなるようですよ。聖書によると娶ったり嫁いだりすることはなく、みんな天使のようになるみたいです。来世では夫婦関係はなくなるけど、それを超えたもっと強い結びつき、愛の姿になると思います。地上での夫婦でも長年連れ添うと、だんだん似てきて戦友のようになってきます。同じ体験をし、同じ苦しみを苦しみ、同じ悲しみを悲しみ、共に歩んだ人たちというのは、何も言わなくても信頼することができ、優しさと慈愛に富んでいます。夫婦だけでなく教会員も、苦労して長く共に歩んだ者たちというのは一体感があります。私たちは来世では、キリストの体となって本当に一体になると思います。相手を自分自身のように思え、愛せるようになるということでしょう、と答えました。

●星野富弘さんは高校の教師でしたが、バク転をして失敗し、首の骨を折って首から下が動かない重度の障害者となりました。そんな星野さんを家族全員で面倒を見、支えてくれました。機械などいじったことのない母が、痰を吸引する技術がどの看護師さんよりも上手になったといいます。彼はこんなことを書いていました。「私の家を訪れる人の中には悲惨な生活をしている家なんだというような先入観を持っている人があんがい多い。母などは悲劇のヒロインのように扱われてしまうことさえある。私が怪我をした当座はたしかにそうだった。だが、失われたところはいつまでも穴があきっぱなしではないのである。穴を覆うために人は知らず知らず失ったもの以上にたくさんのものをそこに、埋め合わせる技を神様から授かっている。「まことにお気の毒様です」「可愛そうですね」などと言われると私たち家族は返す言葉もないほどに面食らってしまうのである。作家の水上勉(みなかみつとむ)さんの奥さんが、障碍をもつご自分の娘さんをさしておっしゃられたことばを思い出さずにはいられない。「あの子はもう、障碍を背負ってなんかいませんよ。抱いて歩いています。」この言葉はそっくり私の家族にも当てはまるような気がする。私の家族も私を、悲痛な顔をして背負ってなんかいない。不自由と不幸は、結びつきやすい性質を持ってはいるが、まったく別のものである。」 (「山の向こうの美術館」)

共に歩んでくれる家族がいたから、星野さんは試練を越えられたのだと思います。愛ってすごいなあと思います。キリストは、われわれ罪人である人間と共に居られ、何時も共におられ、いつまでも共にいてくださいます。それが彼の名前だからです。イエス様はエマオの旅人と一緒に歩かれたように、今日もあなたと一緒に歩いてくれます。あなたの悲しみを喜びに変え、絶望を希望に変え、生き方を変えるためです。「一緒に歩いてくれる」人がいるだけで、人は立ち直り、生きてゆく勇気が出てくるのです。キリストの旅は天国への、栄光への旅です。あなたもその旅を一緒にしましょう。