2021年4月11日(日)主日朝礼拝説教

『イエスが来て真ん中に立ち』

エゼキエル37章11~14節、ヨハネ福音書20章19~29節

井上 隆晶 牧師

①【あなたがたに平和があるように~神はあなたと共におられる~】

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ20:19)イエス様が復活した日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけ身を隠していました。イエス様の次は自分たちが捕えられ殺されると思っていたからです。この「弟子たちはユダヤ人を恐れて」という言葉について先日、面白い文献を読みました。

●ヨハネ福音書が書かれたのは90年代です。同じ頃、ユダヤ教は「ヤムニヤ会議」というのを開きました。既にエルサレムは廃虚となり、神殿は焼け落ち、ユダヤ人たちはエルサレム西部の町ヤブネ(ヤムニヤ)に集まり、ユダヤ教を残すための学校を作りました。そこで正典として決められたのが「ヘブライ語旧約聖書」です。キリスト教徒が使っていた「ギリシャ語訳旧約聖書」は正統なものではないとされ、キリスト教徒は会堂から追放されることが決定され、ユダヤ教と決定的に分かれたのです。

ヨハネ福音書が書かれた背景には、このようにユダヤ教から異端とされたという出来事がありました。イエス様を「神と等しい方」として告白すれば会堂から追放され、殺されることもありました。しかし勇気を出してキリストを神と告白するようにこの福音書は語っているというのです。ユダヤ教でもキリストをメシアと認めていますが、ユダヤ教のメシアは何人もおり、みな人間です。イエス様を単なる人間と告白すれば迫害されずただの分派として認められたのです。しかしキリスト教はイエス様を神としました。この一点がキリスト教とユダヤ教を分けるものなのです。
恐れでいっぱいであった彼らの家の中にイエス様は来られ、その真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われました。(19節)原語では「あなたに平安」です。これはユダヤ人が日常の挨拶に用いた「シャローム」という言葉です。イエス様が彼らに手とわき腹の傷跡を見せられると、弟子たちはイエス様本人であることを知り喜びました。イエス様の復活された体というのは傷跡がありながら、閉じられた部屋に自由に入ることの出来る不思議な体でした。イエス様は再び「あなたがたに平和があるように」と言われました。(21節)この「シャローム」という言葉ですが、ユダヤ人は「神が共におられさえすれば安心であり、こんな平和なことはない」と思っていましたから、「神はあなたと共にいてくださいます、大丈夫です。安心しなさい」という祝福の言葉でもありました。弟子たちはイエス様を見捨て裏切ったわけですから、神はもう私と共にいて下さらないと思っていたのに、イエス様はそれでも神はあなた方と共にいて下さいますと言われます。キリストが共にいるということは、神が共にいるということです。とっても嬉しかったと思います。私たちは多くの弱さを持ち、過ちを犯します。でも恐れてはいけません。神様はあなたを見捨てません。イエス様は「私はあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)という言葉を守ってくださいました。イエス様は自分の身体である信徒を見捨てません。必ず戻ってきます。私たちもイエス様の所に戻ってきます。鉄と磁石が引き合うように戻ってきます。罪を超えて私たちとこの主との絆は強いものなのです。歳を重ねるごとにこの絆は深くなります。

②【聖霊を受けることは、キリストの仕事を引き継ぐため】

イエス様はこの後「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)といわれ、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(22~23節)と言われました。これはヨハネの福音書のペンテコステ(聖霊降臨)と言われている記事です。天地創造の始め、神様は人間を土からつくり、その鼻に命の息を吹き入れられました。ここで弟子たちは神の子キリストによって命の息である聖霊を吹き入れられ、再創造されたのです。聖霊を与えたのは、教会をイエス様の業を引き継ぐ者として任命され、この世に派遣するためです。聖霊と宣教は関係しています。聖霊を受けることと人の罪を解くことも関係しています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉を皆さんはどう聞きますか?よく「信じたら救われ、信じないと地獄に行きます」と伝道する人がいます。私はこの言葉をそのように取りません。「誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されない」というのですから、「赦せ」と教会に命じているのです。あなたにかかっているというのです。教会は、神と多くの民族を結ぶ祭司、仲介者、弁護者となったということなのです。イエス様の務めを引き継ぐということはそういうことでしょう。イエス様やステファノのように自分を迫害する者を赦す務めをしなさいと命じられているのです。だから祭司として教会は「あの人、この人を赦す」努力をしなければなりません。そのためには聖霊のお力が必要です。だから祈るのです。
伝道というのは聖霊の力でするものです。イエス様は「わたしがあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)とか、「私もその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(同14:21)と言われました。キリストが自分の内におられるということが分かるというのです。別な言い方をすれば周りの人があなたを見て「神が共におられるとしか言いようがない」というようになるというのです。アブラハムも「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます」(創世記21:22)とゲラルの王アビメレクに言われたことがありました。ステンドグラスを思い出してください。

●ある男の子とお母さんが聖堂に入りました。聖堂の床には、魔法のように美しい絵が映っていました。「お母さん、見て!これ、何?」と男の子はいうと、お母さんはこういいました。「これは聖人を写した絵なのよ。あの窓をごらん。あの窓には聖人の絵がステンドグラスで描かれていて、外から見た時はすすけているようで綺麗じゃあなかったけど、日光が差し込むと床に美しい姿がありありと映るのよ。」何日か後、学校で先生が聖人の生涯の話をしてくれました。先生が「聖人ってどういう人だと思いますか?」と質問すると、男の子は手を上げ「聖人って、日光が通り抜ける人たちです」と答えました。

私たちの内にキリスト様や聖霊様がお住まいになると、内側から光が放射して、必ず外に現れるようになるのです。伝道ってそうやってするものだと思います。

③【トマスの信仰告白をあなたもしなさい】

12弟子の一人であるトマスはイエス様が復活した日の夕方、弟子たちと一緒にいなかったのでイエス様に会うことができませんでした。仲間の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)といった時、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(25節)と言いました。トマスにはディディモ(双子)というあだ名がついています。それは彼の心の中にいる二人の自分「信じる自分」と「信じられない自分」を意味しています。これは私たちも同じです。いつも100%信じている人は誰もいません。だから「トマスの不信仰」は本当の不信仰ではありません。その中に信仰が入っている不信仰です。トマスは、あなたと同じなのです。信じる心が49%で、信じられない心が51%なら、「信じられない」という言葉が口から出てきます。でも2%しか変わらないのですから、「ああこの人は信じていないのだ」と決めつけてはいけないのです。人の告白などあてになりません。
八日の後、弟子たちはまた家の中におりトマスも共にいました。八日の後というのは日曜日のことです。すると再びイエス様は姿を現し、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。イエス様がこのトマスのいった言葉を言われたということは、姿は見えませんでしたが、その場に共にいて聞いておられたということです。トマスはすぐに「私の主、私の神よ」(同20:28)と信仰告白をしました。イエス様のことを神と呼んだのです。新約聖書の中でイエス様のことを直接「神」と告白している個所は10回ほどです。「彼は、キリスト教信仰の最先端を行く者となった」と讃美歌で有名な由木康牧師は言っています。
イエス様はトマスに「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いだである。」(ヨハネ20:29)といわれましたが、これはその当時の教会や後代の教会に言った言葉です。この福音書が書かれた90年代では既に、生前のイエス様や復活したイエス様を見た人たちはみな死んでしまい、教会の証言を聞いて信じる人たちがほとんどでした。イエス様を見れた人たちはいいなあ、と思うかもしれませんが、イエス様の奇跡を見てもユダヤ人は信じませんでしたし、復活を見た兵士たちも信じませんでした。 この物語は、今も生きているイエス様を信じれるようになるためにはどうしたらいいのかを教えています。この話に共通なことがあります。イエス様は「日曜日ごとに現れ」、「弟子たちが集まっている所」に現れるということです。神様は人間の不信仰を信仰に変える力を持っておられます。太陽に照らされて初めて人は物が見えます。同じように神の光に照らされて初めて目が開き、キリストが分かるようになるのです。だから信じられなくても礼拝に来る、信じている者たちの中にいる、聖書を読み続けるとやがて目が開いてキリストが分かって来て、キリストを信じることができるようになります。信仰はキリストと交わることによってのみ出ることを教えています。

●柳生直行さんはこんなことを書いています。
・「キリスト教は逆転の思想です(死んでも復活する)。それは言うなれば、九回裏のツーアウトに出た逆転ホームランみたいなものです。これはファンにとってはこたえられないでしょう。それと同じように、キリスト教は私にとって面白くてやめられないんです。神様はでかいことをなさる。私はでかいことが大好きなんです。」
・「ドン・キホーテはことによると完全な愚か者と見えるかもしれません。しかしこの人は、何年経っているかわからない樹のように根を深く地の中に張って、自分の確信を変えることをしないのです。…〈バカ〉と〈おバカさん〉とを区別することが大切です。おバカさんたちは決してバカではありません。彼らはただこの世の〈もう一つ先〉のことを射程に入れて行動しているだけです。」

私たちもこの世の〈もう一つ先〉のことを射程に入れてこの世を生きています。つまり、私には復活がある、褒美はこの世ではなく来世で貰うということです。イエス様の復活がそれを教えてくれました。だからこそ笑われようと、おバカといわれようと、この方を信じ、この方の言葉に従ってこの世を生きるのです。

キリスト教が始まったのは人間の力ではありません。神が始められたのです。恐れて隠れていた弟子たちに勇気と信仰を与え、この世に送り出したのはキリストでした。教会はマイナスから始まったのです。これがキリスト教のすごさです。だからマイナスでも恐れることはありません。キリストさえいたら何かが始まる。死んでも死なない。先がある。楽しんで大胆に信仰しましょう。