2021年4月4日(日)主日朝礼拝説教

『復活~石はすでに~』

Ⅰコリント15章51~58節、マルコ福音書16章1~8節

井上 隆晶 牧師

①【復活は人間の理解を超えた出来事であること】

日曜日の朝早く、日が出るとすぐに婦人たちはイエス様の遺体に香油を塗るために墓に行きました。墓に行く途中「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら行きました。石は非常に大きく、婦人たちの力では動かせるようなものではありませんでした。ところが目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてありました。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者(天使のこと)が右手に座っており、こう告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」(マルコ16:6)イエス様は復活してここにはおられないと言うのです。婦人たちはどうしたかというと、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:8)とあります。マルコによる福音書はこれで終わっています。「えっ、これで終わり、これでいいの?」と思いませんか。マルコ伝は最初に書かれた福音書ですから、起こった出来事と天使のお告げを聞いた人間の反応だけを書いているように感じます。つまり、復活という出来事は、人には天地がひっくり返るような出来事であり、恐ろしくて理解できない出来事だったということです。

②【人間の業が一切終わった時に神は働かれる】

金曜日の夕6時から「安息日」が始まりました。嵐のような処刑の金曜日が過ぎ去り、誰もが自分の家に帰り休みました。イエス様を殺した祭司長やファリサイ人たちも、イエス様を裏切って逃げた弟子たちもみんなこの日を休みました。まるで時間が止まったような静かな日でした。しかし人が休んでいる時に、神キリストは陰府に降り、地獄を滅ぼして光の溢れる神の支配する国とし、世の始めから獄に捕らわれているアダムを死者たちと共に解放し、神の救いの業を進めておられました。

●「祝福された安息日に、神の独り子は、そのことごとくの業を終えて、かつて定められた死によって、肉体をもって安息されました。復活をもって彼は元の姿に帰り、われらに永遠の命を与えられます。」(安息日の晩課の祈り)

キリストは金曜日に十字架にかかり、ポーンと日曜日に復活したのではありません。その真ん中に、土曜日があります。これは第七の日と呼ばれる安息日です。しかし人間が罪と死を持ちこんだので、本当の安息日ではなくなりました。死があったら安息はできません。戦いはこの第七の日に行われました。土曜日に旧約を読みました。その中に「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト14:13~14)とありました。この言葉はキリストの戦いの預言でした。「今日」とは、この第七の日(土曜日)なのです。「エジプト人」という所を「死」と置き換えてください。「あなたは今日、死を見ているが、もう二度と死を見ることはない。主があなたのために死と戦われる。あなたは静かにしていなさい」となります。キリスト教では死は人間の敵です。「死は最後の敵」(Ⅰコリント15:26)といわれています。私たちを恐れと絶望で支配するからです。しかしキリストは死に勝ち、復活しました。死はキリストの支配下にあります。キリストは死の棘を抜きました。棘の抜かれた棒は何の威力もありません。誰も傷つけることもできません。死は無力になりました。キリストは第七の日にこの戦いを行い、第八日目と呼ばれる日曜日に復活して姿を現します。今日です。今日は、戦いの日ではありません。今日は祝いの日、死が終わったことを祝う喜びの日、死のない日、天国の日です。石が既にわきへ転がしてあったように、死の問題はすでに解決されたるのです。
これを聞くと思い出すのはイエス様が言われた譬え話です。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4:26~27)イエス様は土の中に蒔かれた神の種なのです。人が寝ているうちに、つまり人の知らないうちに、永遠の命という芽を出して、復活されたのです。

マタイ福音書を読むと、イエス様を殺した祭司長たちは心が落ち着かず、ピラトの所に行って「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、自分は三日後に復活すると言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。」(マタイ27:63~64)といって、墓に封印をし、番兵を置きました。地上では神を信じない愚かな人間たちが騒がしく動き回り、自分の知恵を駆使して何とか神の復活を阻止しようと動き回っています。しかし何をしても無駄でした。神にかなうはずがありません。キリストは墓から復活します。人間が何をしても、神の救いの業を止めることはできないのです。

●河井道(みち)は恵泉女学院の創始者ですが、『わたしのランターン』という書の中でこのように書いています。「キリストは金曜日に十字架にかけられ、次の日は墓の中に横たわって何事も起こらず、彼の敵は彼を笑った。しかし、彼が死人の中からよみがえられた第三日目(日曜日)があったのである。この世には幾日かの間、人には何事も成し遂げられていないかのように見える日々があるし、わたしたちクリスチャンは十字架にかけられ、死んで葬られたと考えられがちである。もしかすると、現在のこの日々がそういう日々かもしれない。しかし、わたしたちには第三日目が与えられていると、わたしたちは信じる。この第三日目が、わたしやわたしの仕事のためにさえも、とっておかれているのだと、わたしは信じている。」

③【救いは死んだ後に行われるということ】

墓は人間の人生の終わりを象徴しています。ここからもう何も生まれず、死んだら何も出来ません。しかしこの墓の向こうで、神の救いの計画が始まること、死の向こうに神の救いの業があることを、私たちはキリストの復活の出来事から知ることが出来ます。私たちは自分が住んでいるこの世で、目に見える形で救いが行われてほしいと思っています。病気の癒し、長き命、戦争のない平和、飢饉も疫病もなく、豊かな富が与えられることが救いだと思っています。弟子たちも、イエス様が十字架にかからず、死ぬことなく栄光の救いを成し遂げてほしいと思いました。しかし神はそうされませんでした。救いはこの世では行われず、死んだ後で行われるということです。ヘブライ書に「死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし」(2:15)と書かれているように、死ぬことによって滅ぼしたのです。

●淀川キリスト教病院の柏木哲夫先生は面白いことを書いています。人間の老いというのは、赤ちゃんが誕生し、だんだん歩くようになるプロセスの逆であると言われます。「首が座る」→「寝返りを打つ」→「座る」→「ハイハイ」→「つかまり立ち」→「歩く」。老人はこの逆をたどり弱っていきます。しかし赤ちゃんと老人で同じレベルの「つかまり立ち」を見てみると、老人の場合は杖を使って三本足歩行ができますが、赤ちゃんはできません。老人は今までの自分の経験を使う知恵をもっています。つまり老いというのは、いったん上がった坂をそのまま同じように引き返すのではなく、山の向こう側へ降りて、新しい世界へ入っていくのが老いの世界だというのです。言語機能は70歳の時にピークに達すると言われ、20歳の青年と80歳の老人の言語機能が、だいたい横に並ぶといいます。
キューブラー・ロスというターミナルの専門家が『死』という本を書いています。この本に「ザ・ファイナルステージ・オブ・グロウス」という副題をつけています。彼女は、死というのは成長の最終段階であると定義しています。…ということは、死を最終的に迎えるまで人間は成長しつづけることができるということになります。たとえ肉体は衰えても、心や考え方はどんどん成長してゆくことができて、その成長のピークとして死がおとずれるのです。

植物も一粒の種が地に落ちて死に、土に埋葬された後、芽が出て成長します。昆虫もそうです。さなぎになって何も食べず、まるで死んだように動かなくなってからドロドロに溶けて、栄光の体に変われるのです。人は死んだら終わりだと言います。しかしそうではない!と聖書は断言します。死んだ後でも成長するというのです。すごいなーと思います。神の計画や知恵は何と深く、大きいことでしょうか。「祈祷してもこの世で変われなかった」と嘆かなくていいのです。死んだ後に変われるとしたら、どうでしょう。希望が出てきませんか。やあ楽しい。

④【ガリラヤで待つ~キリストにつながり続けること~】

天使は「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる、と。」(マルコ16:7)といいました。今も生きているイエス様に会いたかったらガリラヤへ行けと言っているのです。ガリラヤとは物語が始まった場所です。そこで待っているのは、もう一度最初から福音書を読めと言っているのです。一緒に旅をしようと言っているのです。復活したキリストのことが書いてあるのは聖書だけです。この世だけでは復活は霧のようにかすみます。希望は消えてゆきます。しかし聖書を繰り返し読むとき、復活したキリストがはっきりと見えてきます。希望が湧いてきます。そして復活の光でもう一度最初からイエス様の物語を読み、たとえ話を聞くとき、すべてはこの復活を目指していたことを知ることが出来ます。
人間が復活信仰を生み出したのではなく、復活があるから信仰が始まったのだとパウロは語りました。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15:14)人間の信仰では駄目です。大切なのは神が行った揺るぎない業です。復活したイエス様と共にいると、復活信仰が出てきます。キリストから離れたら復活信仰は生まれません。復活して生きているキリストにつながり続け、共に歩き続けることが大事なのです。

●死を受け入れやすい人の特徴の中に「時間をつなげることのできる人」というのがあります。自分の人生の過去の体験も、現在の体験も、すべてが益となって未来につながっていると思っている人は死を受容しやすいというのです。

コロナ感染症が猛威を振るっています。難民の問題、少数民族の迫害の問題、戦争と略奪、災害、私たちのこの世での戦いはまだまだ続きます。しかし勇気を出しましょう。もう勝負は決まっています。私たちは敗北しません。死の向こうには栄光が待っています。キリストはこの世で立派に戦った私たちを両腕を広げて迎え、褒めてくださいます。最後にもう一度いいます。キリストによって死は終わりました。命が始まりました。今日は祝いの日、死が終わったことを祝う喜びの日、死のない日、地上に現れた天国の一日です。それを祝いましょう。「キリスト復活!」「実に、復活!」