2021年3月28日(日)主日朝礼拝説教

『イエス様の死』

詩編88篇14~19節、マルコ福音書15章33~47節

井上 隆晶 牧師

①【万物の終わりと万物の回復の始まり】

イエス様が十字架にかかられた時、不思議な自然現象が起こりました。こう書かれています。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マルコ15:33)三時間に及ぶ皆既日食のような出来事があったというのです。イエス様のことを「義の太陽」といわれます。心の闇を照らして下さるからです。その太陽であるイエス様が死のう(沈もう)としているので、被造物である太陽も恐れて身を隠したのだと教会は解釈しました。詩編88篇はその時のイエス様の気持ちを予言して語っています。「愛する者も友も、あなたは私から遠ざけてしまわれました。今、私に親しいのは暗闇だけです。」(同19節)弟子たちは皆逃げてしまい、イエス様は暗闇の中で一人で死のうとしています。旧約聖書ではこの太陽が暗くなる日のことを、「主の日」と呼びました。それはこの世の終わりに行われる神の裁きの日のことです。「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス8:9)とあります。 「終末」という言葉を聞いたことがあると思います。世の終わりのことです。カルト宗教は大きな地震や自然災害や戦争が起こると「今が終末の時だ」とかいって民衆を惑わします。しかし聖書ではキリストが来られた2000年前から終末は始まっているといっています。神の子の体が破壊されたのに、この世が破壊されずに残るはずがありません。キリストの死と共に万物は終わります。しかしこの暗闇の中で神は新しい創造を始めようとしています。主の日は「裁きと救い」が同時に起こる日だからです。

②【神を信じ抜く新しい人間の誕生】

午後三時にイエス様は大声で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。(15:34)これは旧約の詩編の中で預言されています。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜ、私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩篇22:1~2節)また、詩編88にも「主よ、なぜ私の魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。…今は死を待ちます。」(詩編88:15~16)という言葉で出てきます。この叫び(祈り)をどのように読んだらいいのでしょうか。十字架にかかるということが神の意志であることをイエス様は予め知っておられました。それなのに「なぜ」と言われます。神が助けに来てくれると信じていたのでしょうか。それとも神を疑い、神に恨み言をいう「なぜ」なのでしょうか?
イエス様は暗闇の中から、父なる神様を呼びました。しかし神様は答えて下さいませんでした。遠く離れて救おうとせず、顔を隠して沈黙されます。それでもイエス様は死ぬ前に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)とおっしゃいました。答えはないけれども神様を信じて委ねられたのです。イザヤ50章10節にはこう書かれています。「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩く時も、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」 午後三時というと、エデンの園でアダムが神様の足音を聞いて木々の間に隠れた時刻です。エデンの園で神が「どこにいいるのか」とアダムに呼びかけた時、彼は神の顔を避けて隠れました。今、新しいアダムであるイエス様が神に「どこにおられるのですか」と呼びかけた時、神様は顔を避けて隠れました。それでも、イエス様は神の顔を尋ね、叫び続けました。ここにどんな暗闇の中でも、どんなに理不尽なことが起こったとしても信仰を失わない「新しい人間」を見ることができます。こうしてイエス様はアダムの不従順を癒されたのです。私たちも苦しい時、または現実をなかなか受け入れられないとき「なぜですか」と叫ぶことがあります。「どうして私はこんな目に遭うのですか。なぜ、こんな苦しみをしなければならないのですか」と問います。イエス様も「なぜ」と問われたのですから、私たちも「なぜですか?」と神様に問いかけていいのです。でも答えは与えられないでしょう。答えを出してはいけないのです。カルト宗教は原因探し・悪人探しをし、それを取り除けば幸せになれると嘘を言い、ますます願望の奴隷にしてゆきました。苦しみや不幸の理由がなぜだか分からないけれども、神様を信じるということが大事なのです。

③【なぜ、私をお見捨てになったのですか】

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びにはもう一つ深い意味があります。それは、やはりこの言葉の通り、神様はイエス様を見捨てたのです。イエス様は「神に見捨てられた」経験をなさったのです。それは死ぬという経験です。死は命から見捨てられることです。決して死ぬことのない神の子が、人間性において死ぬ経験をされたのです。死は命である神から最も遠ざかった所にあります。死んだ人たちは皆、神様から最も遠ざかった世界にいるのです。その人たちの所へ下って行くためでした。キリストが見捨てられなければ、見捨てられた人の所には行けないからです。こうしてイエス様は徹底的に死ぬ人間と連帯されます。この神に見捨てられたような死の世界にキリストは来てくださいました。だから最早、誰も「私は神に見捨てられた」ということはできません。神はあなたを捜し求めて、来て下さったからです。

●ダミアン神父がハンセン氏病療養所で働き、自らもハンセン氏病に罹ったとき、彼は「これで私もやっと彼らの友人となれた」といいました。同じものになってはじめて、心が一つに結ばれるのです。死んでゆく人間と同じように死ぬ者となって初めて神の子キリストは、人間と完全に一体になったのです。

キリストは人間としてその見捨てられた場所に下り、神としてそれらの人に呼び掛けて言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。」(エフェソ5:14)さあ、私と共にここから出てゆこう。

●先週読んだ祈祷文は「ラザロのよみがえり」がテーマでした。その中にこんな祈りが出てきました。「命の方が共におられるのにどうして姉妹たちは泣くのか」、「ベタニヤよ、喜べ。お前が養育したラザロをよみがえらせるために、キリストが来られるからである」、「地獄はキリストの足音を聞いて恐れた。自分の滅ぼされる時が近づいているのを知ったからである。」祈祷文は完全に、キリストを神として書いています。ラザロ一人を死から解き放つならまだしも、来週の金曜日にはついに、神自らが地獄の中に入ってくるのですから、地獄は恐れ、世の始まりから飲み込んだ数え切れない死者たちを吐き出すようになるでしょう。先週読んだ福音書の中に「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか」(ヨハネ14:9)という言葉がありました。これはフィリポだけでなく、すべての信者に言われている言葉なのです。「こんなに長く信仰生活を送っているのに、私が分かっていないのか」主は「私を見た者は、父(神)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)といわれます。神が助けに来て下さるのにどうして救われないと思うのですか。神があなたと共にいてくださるのに、なぜ泣くのですか。神があなたの味方なのに、なぜ恐れるのですか。信仰とはこれです。キリストが分かるということなのです。

こうして、生きるはずの神の子が死んで、死ぬはずの私が生かされました。捨てられるはずのない方が捨てられて、捨てられて当然であった私が天に引き上げられたのです。あなたを救うために、父と子はこれほどまで苦しみを体験されたということなのです。あなたを手に入れるために、神は死ぬ者にまでなってくださったのです。だた、敬意をもって、父と子の苦しみにひれ伏しましょう。

④【イエス様の葬り~死を変容するため~】

37節に「イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。「息を引き取る」とありますが原語は「息を吐き出す」です。息は「プネウマ」という言葉で「霊」です。十字架の上からイエス様は全世界に御自分の命の息、聖霊を吹きかけます。万物を新しくするためです。イエス様の死と共に様々な不秘義な現象が起こりました。それは世界の回復の始まりを証ししています。イエス様の流された血は、呪われた大地の上に染み込みます。こうして大地の呪いは終わりました。神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました。この垂れ幕には天使ケルビムの刺繍がしてありました。それはエデンに人間が入れないように守っていた天使です。その大天使がキリストの死によって退けられ、エデンの園が再び開いたことを教えています。百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白しました。十字架は恐ろしく悲惨ですが、何か不思議な勇気と慰めを感じます。絶望ではなく希望を感じます。死ではなく命の香りがします。闇ではなく光を放っています。古いものが終わり、新しいものが始まったことを感じます。

42節に「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であった」とあります。イエス様が死んだ金曜日は、安息日の前の「準備の日」でした。受難はまことの安息が始まるための準備だったのです。アリマタヤのヨセフという身分の高い議員が、イエス様の遺体を引き取り、十字架から降ろして、亜麻布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておきました。聖書は丁寧にイエス様の葬りを書きます。イエス様は本当に死に、本当に墓に葬られました。すべてが終わりイエス様は眠りにつかれました。眠ることなくまどろむことのない神が、死という人間の眠りを用いて休むのには意味があります。それは死を受け取って、死の意味と性質を内側から変えるためです。死は崩壊でも終わりでもなく、永遠の命への入門に変えられました。キリストは死を祝福された死に変えられます。「マクダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(47節)と書かれています。「墓を見つめていた」と書かずに「遺体を納めた場所を見つめていた」と書かれているのには意味があるでしょう。墓はもはや墓とは呼ばれないからです。命を生み出す女性たちが、その場所を見つめています。何かが始まろうとしています。

●英国の詩人ロバート・ブラウニングはこのような詩を書きました。 「かつてあなたがたをこよなく愛し、あなたがたにこよなく愛された者(自分)を、愚か者たちは、死に閉じ込められて、その所へ低く横たわっていると考えている。私を憐れむのか。…倒れるは立ち上がるため、挫折するのはよりよく戦うため、眠るは目覚めるためと確信した者、それが私だ。…とこしえに進め、この世のように来世においても!と。」自分が死ぬと人は憐れみ、死の世界に閉じ込められたと思うかもしれない。どうして死を悲しむのか。みんな大変な思い違いをしている。死ぬのは、来世で永遠に目覚めるためだ、というような意味です。

今日はイエス様のエルサレムに入場を記憶し、手に棕櫚の葉をもって礼拝しました。私たちは、イエス様を神の国の王様としてこの日、受け入れたのです。主は私たちを救うために来てくださいます。主は私たちを生かすために十字架に上られます。神は私たちを決してお見捨てになることはありません。「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」(詩編37:24)のです。神はあなたの味方です。それを信じ、勇気を出しましょう。