2021年3月21日(日)主日朝礼拝説教

『三本の十字架』

イザヤ53章1~6節、ルカ福音書23章32~43節

井上 隆晶 牧師

①【救いとは何か】

「二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。されこうべと呼ばれるところに来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に一人は左に、十字架につけた。」(32~33節)イエス様は処刑されるために、エルサレムの郊外にあるヘブライ語でゴルゴタ(髑髏という意味)と呼ばれる場所に引かれて行きました。イエス様は死罪の中でも最も重い刑であり、奴隷や重罪人に課せられる十字架刑を宣告されました。当時、犯罪人は自分がつけられる十字架の横木を自ら背負い、刑場まで歩かされました。刑場にはあらかじめ縦の木が立てられていて、釘で両手首を横木に釘づけられてから、縦の木に組まれ、両足も縦木に釘づけられました。体重がかかると息ができなくなるので犯罪人は身を起こそうとします。だからなかなか死ねず、死ぬまで何日も苦しみ、最後は窒息死か、心臓破裂で死ぬそうです。 この日ゴルゴタの丘にはイエス様を中心にして3本の十字架が立てられました。他に二人の犯罪人が共に十字架につけられたからです。この二人は全人類の象徴です。人は皆死なねばなりません。キリスト教では死は自然なものではなく、罪の報いであって、それは呪われた死です。しかし「イエスと一緒に死刑にされる」と書かれてあります。キリストは死を待つすべての人間と最後まで共にいてくださるということです。死の隣に命がおられ、地獄の隣に天国の門は開いているのです。恐怖の中にも慰めを感じます。キリストが一緒に死んでくださるからです。

十字架上のイエス様に向かって祭司長、律法学者、十字架についた強盗たち、通りかかる人たちがみな同じような言葉で罵りました。「そこを通りかかった人々は頭を振りながらイエスを罵って言った。神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら自分を救ってみろ。」(マタイ27:39)「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。」(27:43)これは詩編22:8~9の預言の成就でした。人々はイエス様に十字架から降りたら信じるといいました。人は力強い、奇跡を行うメシアを期待していました。人間は力に憧れ、力があれば救えると思っています。しかし力があれば本当に救えるのでしょうか。救いとは何でしょうか。

●「ピアカウンセリング」という言葉があります。「ピア」というのは「仲間、友人」という意味です。同じ患者同士でカウンセリングをすることによって人は癒されてゆくといいます。ある「重度の皮膚病を患う子供さん」を抱えた母親が、自分の苦しみや痛みをいろんな人に話しても分かってもらえなかった。でも同じ病気を抱える子供を持つ母親に話した時、自分のつらい気持ちが分かってもらい、苦しみが解けたとおっしゃっていました。強い人では癒されなかったのです。苦しんでいる人は、苦しんでいない人にではなく、同じような苦しみを持っている人によって癒されてゆくのです。前にも話しましたが、神学生の時、派遣されていた教会の信徒さんが末期のがんに罹りました。彼はあえて痛み止めを打たず、ベットの上で苦しみに悶えていました。見舞いに行った時、「彼は私の代わりに苦しんでいるんだ」と感じました。そしてイエス様が彼の隣に立って、「彼の魂は誰にも渡さない」と、おっしゃったように感じたのです。これは私だけではありません。神谷美恵子さんも、ハンセン氏病の患者さんを見た時「なぜ私たちでなくあなたが?あなたは代わって下さったのだ。」と詩を書きました。

不思議なのですが、私たちは苦しむ人を見る時に、自分の代わりに苦しんでいると感じ、自分の罪を負っているように感じます。そして勇気と慰めを感じます。この世では苦しみが無くなることはありません。そこで神は、問題を解決するという方法ではなく、苦しみによって人を救うという道を備えられたのです。なぜ神が人になり、十字架の上で人と同じようになって苦しんだのかは、人類と一体になって人類特有の悲しみや苦しみや死と連帯されたということなのです。苦しむ救い主、苦しむ人となった神の中に私たちは慰めと、救いを感じることが出来るのです。北海道で精神障碍者のための活動支援施設「べてるの家」を立ち上げた向谷地さんは「苦しむ教会観が必要なんです」といわれました。精神障碍者を受け入れることによって教会は苦しみましたが、それで良いというのです。

②【父よ、彼らをお赦し下さい】

イエス様は、十字架につけられるとすぐ父なる神に祈りました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)十字架のイエス様は茨の冠をかぶっていますから王様です。ピラトは罪状書きにはっきりと「ユダヤの王ナザレのイエス」とヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語で書きました。この三つの言語は当時の世界を象徴していますから、世界の人に向かってイエス様は王であると宣言したことになります。ユダヤ人たちは「王と書かないで、王と自称した」と書いてくれと訴えましたが、ピラトは取り合いませんでした。神は、ピラトを用いて預言させ、世界中に「キリストこそ神の国の王である」と知らせたのです。この王が「お前の罪を赦す」と宣言したのです。罪の証書を裂いたのです。(コロサイ2:14)赦された方は意識がないと思いますが、一方的に赦したのです。イエス様は「自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。人間は自分のしていることが分かりません。本人は罪が分からないのですから、周りが赦すしかないではありませんか。人が変われないので、神が変わられたのです。ですから罪の赦しは一切、人間の業にはよりません。神の側の問題であって、神が一方的に赦して下さっているのです。

③【あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる】

最初二人の強盗も同様にイエス様を罵っていました。しかし暫くして一方の強盗は考えを改めました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いをうけているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:40~41)なぜ彼は途中で変わったのでしょう。彼はこの苦しみは自分の罪の報いだ、これは当然なのだと認めました。ところが横を見ると、何も悪いことをしていないのに、自分と同じ苦しみをしているイエス様を見たのです。そしてイエス様の祈りを聞き、苦しみに耐えておられる姿を見て、回心したのだと思います。
彼は自分の間違いとイエス様の正しさを認め「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」(同23:42)と祈りました。強盗は天国のことを「あなたの御国」といいました。天国はキリストの国であり、彼がその国の王であると強盗は認めたのです。それはキリストを神と認めたということです。神の国の主人は神だからです。すごい告白です。するとイエス様はこの強盗に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同23:43)といわれました。楽園というのは天国(神の国)と同じ意味だと思って下さい。キリストはこの男のわずかな告白を聞いて、天国を約束して下さいました。強盗はどんな良い業も出来ませんでしたが、この一言で天国を手に入れたのです。神は何と寛大で気前の良い方なのでしょう。神が求めているのはこの告白だけなのです。
イエス様を真ん中にして、右と左の犯罪者の運命は分かれました。すべての人間はイエス様を真ん中にして右と左に分かれてしまうことを聖書は教えています。一方はイエス様と共に天国に入り、一方は地獄にとどまりました。神はすべての人を天国に招くために手を差し伸べています。しかし、その神の手に、人間の手が結ばれなければ天国に入ることができません。救いとは神と人間の意志の協力によって成就します。自分の罪を認め、キリストの愛と赦しを信じ受け入れる時、心の中に天国が生まれます。それと反対に恨みを持ち続けると、地獄はその人の心の中に生まれるのです。人は自分で天国に入り、自分で地獄にとどまります。キリストはいつも罪人の隣に共にいて下さいます。あなたの罪を負い、それを赦し、あなたのために祈っていて下さいます。それに気づく目を持ちたいと思います。

●ある母親の息子さんがステージ4のガンになりました。息子さんは治療をしないといい張りますが、家に帰ってきて鳥を飼いました。その鳥に家族みんなが癒され、息子さんは治療を始めることにしました。でも母親の目には、彼が恨みの塊であることが映っていました。「この恨みを何とか解いてほしい。親としてどうしたらいいのか」と言われるので、私はこういいました。イエス様は、二人の強盗の間で十字架につけられました。一方は恨みを解きましたが、一方は恨みを持ったままでした。自分の罪を神のせいにして罵っていました。でもイエス様はその横で黙って彼の罪を負い、祈られました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」私も昔、神に怒りを向けていました。しかしイエス様が現れ「私は十字架の上でお前に命も、赦しも、服もすべてを与えた。もう何もあげれるものがない、ごめんね」といわれました。それを聞いたとき、私の恨みは解けてしまいました。スイスのクリスチャン精神科医P.トゥルニエは「もしある人間が自分の過ちを認めるにいたるとするならば、それは静かな瞑想によるのであり、あるいは彼を裁いたことのない誰かとの、うちとけた雰囲気の中で生じてくることなのである。」と書いていますが、キリストは私を裁きませんでした。私をそのまま受け入れ、赦してくださいました。親として出来ることは本人を決して裁かず、憐れみ、赦し続けることと祈ることだと思います。

●木村藍(らん)という人が『傷つきやすいあなたへ』という本の中で<引き算の人生>という題の詩を書いています。「人生は足し算だと思っていました。学校へ行って新しいことを勉強し、できなかったことができるようになる。友達をつくる。知識や技術を身につける。働いてお金をもうける。服を買う、車を買う、家を建てる。足りないものは足してゆく。知識、学歴、資格、お金、持ち物、人間関係、なんでも多ければ多いほどいいと思っていました。人生は足し算でした。うつ病になって、なにもできない惨めさを知りました。仕事はおろか、起き上がることもできません。電話に出るのも、人に会うのも苦痛になりました。今までできたことが、できなくなりました。やりたくてもできないこと、どんなにしたくても、やってはいけないことも覚えました。それから人生は引き算になりました。…」

人生から引き算をしていって何が残ると思いますか。最後に残るのは、そんなあなたを愛しておられる神様の愛、キリストの愛です。その愛は、私たちがこの世で行った何かの善い業をはるかに超えて優るものですし、同時に多くの失ったものをはるかに補う大きなものなのです。強盗の人生はマイナスばかりの人生だったと思いますが、最後にイエス様によってプラスの人生になったのです。自分の罪深い、マイナスの人生の前に無限のプラスがついていると思いましょう。あなたはこのキリストの愛で天国に入るのです。どんな人も赦し、天国の門を開いて入れてくださる方であるキリストの愛と寛大さを、全ての人が知り賛美しますように。