2021年3月14日(日)主日朝礼拝説教

『なぜ無駄遣いをするのか』

詩編55篇10~15節、マルコ福音書14章3~11節

井上 隆晶 牧師

①【香油を注いだマリア】

イエス様の十字架の前に、マリアとユダという二人の人が登場してきます。この二人はとても対照的な信仰をしています。今日はそのお話をします。
イエス様が食事の席に着いていた時、一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来てそれを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。ヨハネ福音書ではこの女性はラザロの姉妹マリアだと伝えています。(ヨハネ12:3)ナルドの香油はヒマラヤの高い山に生えている木の根っこからとられたもので非常に高価なものでした。マリアが注いだものは、その場にいた人が見積もっていますが300万円もの価値のある香油でした。しかも彼女は、その香油の入った石膏の壷を壊して、全部を惜しげもなくイエス様の頭に注いだのです。香油の香りが部屋全体に広がりました。マリアのこの行為は何を意味しているのでしょう。
(1)第一にイエスの頭に香油を塗るということは「イエス様は救い主」だというマリアの信仰告白であり、同時にメシアとして聖別されたことを意味しています。メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」という意味であり、昔は王、祭司、預言者の任職式には油を注ぎました。マリアが香油を注いだことは、イエス様こそメシアであることの証しであったのです。
(2)第二にマリアはイエス様の葬りの準備をしたということです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8節)とあります。彼女は香油の入っていた石膏の壷を割りました。パレスチナの葬儀では遺体に香油を塗って、その壺を割って遺体と共に埋めました。器を割るのは、最後の別れのしるしでした。よく戦いに行く前に武士が酒を酌み交わした後、飲み干した杯を地面にたたきつけて割る場面が出てきますが、これは今生の別れを意味しています。彼女は主イエスに感謝と共に、地上での最後の別れをしたのです。イエス様はそれまでも何度も「自分は必ず殺される」と言っておられたのに、弟子たちは誰も聴いていませんでした。それどころかイエス様が王様になれば、自分たちは大臣になれると思っており、自分のことを考えるのに必死で、誰もイエス様の話を聞いていなかったのです。そのような弟子たちの中で唯一、静かにイエス様の話にじっと耳を傾けていたのがマリアでした。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」(ルカ10:39)マリアだけがイエス様を理解していたのです。この二日後にイエス様は死んで墓に葬られますが、その時には時間がなくて遺体に香油を塗ることができませんでした。安息日が終わって朝早く婦人たちが香油を持って墓に行った時には、既にイエス様は復活しており、買い求めた香油は必要なくなったのです。ですからマリアが注いだ香油が唯一イエス様に塗られたものとなりました。マリアのこの行為はイエス様の死に対する勝利、復活の預言になったと解釈されました。香油は死んだ者に塗るものですが、マリアは生きておられるイエス様に香油を塗ったのでイエス様は死なないという意味になるからです。

②【計算で生きる弟子たちの信仰】

ところが弟子たちの中に、彼女のこの行為を非難する者がいました。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。」(4節)そして彼女を厳しくとがめました。ヨハネの福音書の方ではこれを言ったのはユダだと書かれています。「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこういったのは、貧しい人々を心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」(ヨハネ12:5~6)とあります。ユダが貧しい人に施せと言ったのは口実でしょう。会計をごまかしていたとあるところから推測すると、香油を売ったお金を地位の高い人に渡して(賄賂)イエス様を王様として認めてくれるように働きたかったのではないでしょうか。ユダは自分が遊ぶためにお金を使いたかったのではないと思います。自分のやり方のほうがイエス様より賢いと思っていたのだと思います。彼には何か焦りのようなものを感じます。しかしイエス様は弟子たちに言われました。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。」(6~7節)これは、貧しい人に施したいのならこれからいくらでもあなたがたはできるはずだという、イエス様の皮肉でしょう。
弟子たちはいつも「計算」で生きています。この人は自分の役に立つかどうか、この行動は自分の夢を実現させるのに役に立つかどうかで見ています。自分の利益の為に人も物も利用しようとしているのです。まずマリアに対して失礼です。マリアが自分の持ち物である香油をどう使おうと彼女の自由です。それなのに彼女の香油をまるで自分の物であるかのように思っています。またイエス様に対しても失礼です。「イエス様に高価な香油を使うなんて無駄だ」といっているのですから。ここに彼らの高慢と偽善が隠れています。イエス様でさえも、自分の夢(イスラエル王国の再興)の実現の為に利用しようとしているのです。この出来事の後、ユダはイエス様を引き渡そうとして祭司長たちの所へ出かけて行き、銀貨30枚を手に入れます。これは90万円位で奴隷の値段と同じです。香油の三分の一以下の値段です。なぜユダはイエス様を裏切ろうと思ったのでしょう。イエス様が「埋葬の準備をしてくれた。」(8節)という言葉を聞いて「ああもう駄目だ」と思って行動を起こしたのだと思います。彼もイスラエル王国の再興という夢がありました。その夢を叶えるためにイエス様に従って来たのに自分は死ぬと言われます。そこで彼はイエス様に裏切られたと思ったのでしょう。そこで彼は最後の賭けに出たのだと思います。イエス様を窮地に追い込めば、奇跡を行ってローマ軍を追い払い、エルサレム王国を実現させてくれると思ったのです。ところが本当にイエス様は死に、彼の夢も消えてしまいました。絶望した彼は祭司長たちに金を返して自殺したのです。本当に裏切ったのなら自殺はしなかったでしょう。

ここまで話してきて、二つの信仰のスタイルがあることがお分かりでしょうか。マリアの信仰はキリスト中心の信仰ですが、ユダの信仰は自分中心の信仰です。マリアの信仰は、神が自分にしてくれることを喜ぶ信仰ですが、ユダの信仰は、自分の夢がかなえられることを喜ぶ信仰です。マリアの信仰は手離す(夢や香油)信仰ですが、ユダの信仰は集める(金、人気)信仰です。今日でも、この二つの信仰をする人がいます。なぜ人は、自分の夢や願望をかなえるために必死になるのでしょう。それは自分の願いがかなえられれば幸せになれると思い込んでいるからです。ユダはこの世的には頭が良いですが、霊的には無知な者として露わになりました。どうしてキリストのなさり方を信頼しないで、自分のやり方のほうが正しいと思ったのでしょう。

③【世界中に満ちている神の純粋な愛と命】

イエス様はマリアのしたことを「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(13節)と言われました。マリアがしたことは、キリストが私たちにしてくれた福音のひな型だったからです。すなわちマリアが石膏の壺を割って、その中の香油を全部注いでしまったように、イエス様は自分の体を十字架の上で壊し、自分の持っている愛と命と赦しを一滴残らず、すべての人類に注がれたからです。ヨハネ福音書は「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)と伝えています。この家はこの世界を象徴しています。この世界にはイエス様の愛と命と赦しが満ちているというのです。ユダは「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」といいましたが、本当に愛の無駄遣いをされたのは神様の方です。キリストの愛と命が豊かに注がれても、ユダは気がつかないからです。ユダも100%の愛で愛されたのです。イエス様に足を洗われ、聖パンをもらったのです。自分が溢れる愛で愛されていることを知ることは何と難しいことでしょう。ナーウェンはこう書いています。「自分の罪は取り去られており、ただ神だけが人を救うのだと気づくとき、私たちは自由に仕えることができる。そして真に謙遜な人生を送ることが出来るのである。」

●東日本大震災が起こって今年で10年になります。TVで様々な報道がなされていました。南三陸町の防災対策庁舎で最後まで「今すぐ高台に避難してください」と呼び続けた24歳の女性職員の遠藤未希さんも帰らぬ人となりました。結婚を控えておられたそうです。でも彼女のお陰で逃げ延び、命を救われた人もいます。傷ひとつない遺体で見つかった赤ちゃんもいました。検視官が不思議に思っていると、その子のお母さんが遺体で見つかり、腕をしっかり回して赤ちゃんを抱き抱えたままの姿で亡くなっていたそうです。検視官はそれを見て涙したそうです。阪神淡路大震災の時、自衛官によって瓦礫の下から救い出してもらった少年が大きくなって自分も自衛官になり、東日本大震災の被災地に赴き救出活動をしました。避難所で不安と恐れでいっぱいだった時、若い自衛官が話をずっと聞いてくれて、不安がなくなったので自分もそのようにしたいと思ったそうです。それらの報道を通して、私たちは人を愛する人たちの姿を見ることが出来ます。災害は悲惨であり、その悲しみは決して消えることはありませんが、それでも沢山の人の愛があったということです。人は人のために生きるのであって、自分の為に生きるのではないということを教えられます。

先週に読んだヨハネ福音書の中でラザロについて「あなた(イエス)が愛しておられる者」(11:3)と呼ばれ、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5)とも書いています。これはラザロだけを特別に愛しておられたのではなく私も同じ愛で愛されています。神が愛していてもラザロは病気になり、死にました。私たちも同じです。でもキリストが愛した人がそのまま死で終わることはありません。ラザロは死にましたが、イエス様は「わたしの友ラザロは眠っている」(11:11)と言われました。神の目には、死は「滅び」ではなく「眠り」に過ぎません。「私は彼を起こしに行く」(11)と言われます。私たちは洗礼によってキリストに結ばれて一体になりました。私の体は自分だけのものではなく、キリストの体となったのです。キリストは自分の体である私を尋ね求めて地獄の底にまで来て下さいます。私は彼の体の一部だからです。彼が探し求めるのは自分なのです。そして必ず死からを起き上がらせて下さいます。キリストの体が死に支配されることはありえないからです。キリストの愛が私を復活させます。彼は私を眠りから起こしに来てくださいます。私はそれを信じます。

クリスチャンの精神科医のK先生の息子さんが自死された時、彼は「神を信じていても何でも起こることが分かった」と言われました。この世では、神を信じていても、神に愛されていても何でも起こります。でも、それだけで終わらないということも確かです。神は、すべての人をやがて起こされます。震災で亡くなった多くの人も、やがて起こされる日が来るでしょう。神が「私は彼を起こしに行く」と言われたからです。すべての人に神の刻印(神の像)があり、すべての人は神のものだからです。イエス様の十字架、これはすべての人のために壊された神の壺です。彼の十字架の死によって、神の命が豊かに流れ出ました。この命が死を飲み込むます。死は神の敵だからです。そして死は必ず消滅するでしょう。神の命の方が大きく強いからです。人類から死を取り除いてくださった偉大なキリストの死に感謝をいたしましょう。神の命に飲み込まれて、今日も平和に生きましょう。