2021年3月7日(日)主日朝礼拝説教

『これで商売をしなさい』

箴言6章6~11節、ルカ福音書19章11~27節

井上 隆晶 牧師

①【人生は商売であること】

イエス様の生涯が終わりに近づいてゆくと、譬え話の内容がだんだん変わってきます。最初は「神の国」の譬えが多かったのですが、それが忠実な僕の譬え、タラントンの譬え、ムナの譬え、10人のおとめの譬えなどになってゆきます。「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」(ルカ19:11)ので、神の国が現れるまでは時間がかかること、その時まで信仰を失わず、忍耐して神の国の到来を待つことを話されました。そこで今日はムナの譬えをお話しします。
「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」(12節)とあります。「ある立派な家柄の人」とはイエス様のことであり、「遠い国」とは神の国のことです。イエス様が最初この世に来られた時、誰もイエス様をこの世の王として認めませんでした。しかし主はそれでも自分が王であることを証しなかったわけではありません。ロバに乗ってエルサレムに入場し、自分が柔和な王であることを証されました。また茨の冠を被って十字架に上り、人々の罪の赦しを宣言し、地獄に入って死と戦ってそれを滅ぼして下さいました。「王の位を受けて帰って来る」(15節)とありますので、今度来られる時(再臨)は、はっきりと力強い王様としてやってこられます。でも、その時も多くの国民は彼をこの世の王として受け入れないようです。「そこで彼は十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい』といった。」(13節)とあります。ムナというのはギリシャの銀貨で、大体100日分の賃金にあたります。今だったら80万円くらいでしょうか。一人に一ムナずつ平等に与え、これで「商売をしなさい」と命じられました。このムナとは後で詳しくいいますが、信仰だと思ったらいいでしょう。信仰を用いて商売をせよというのです。

②【この世をどう生きるかで来世の輝きが違ってくる】

やがて「彼は王の位を受けて帰ってくると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうと」(15節)しました。人生の最後に私たちは神様に決算報告をしなければなりません。最初の者が進み出て「ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました。」(16節)と報告すると、主人は「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」といわれます。二番目の者も報告して「ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました。」(18節)と報告すると、主人は「お前は五つの町を治めよ。」といいました。「もうけました」とありますが、原語では主語は「わたし」ではなく「あなたの1ムナ」となっています。「あなたの1ムナが10ムナを生みました」です。自分が頑張って増やしたのではなく、ムナそのものが新しいムナを生んでいったというのです。神様がくださる信仰自体に命が宿っていて、どんどん増えるということを言っているのです。

●私はこれと同じ経験をしました。み言葉に従ってこの教会に来たら、年末に教会員ではない方が何百万円献金してくれ、それが7年間続きました。み言葉に従って福音を伝えたら、悪霊が去ってその人はイエス様を信じるようになりました。神の言葉のすごさというものを目の当たりにしました。神の言葉には力があること、命があることを見てきました。み言葉に従わなかったらそれを知ることも見ることもできなかったでしょう。

同じような譬えがマタイ25章に出てきます。マタイのタラントンの譬えとルカのムナの譬えの違いは何でしょうか。マタイではそれぞれの力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンと違ったものをもらい、働きの量が違っても同じ褒美の言葉をもらっています。ところがこのルカの譬えでは、同じ1ムナが与えられ、働きの量が違うと、褒美も変わっています。マタイが伝えようとしたのは、人はこの世で生まれた時から違う物が与えられるということです。寿命、健康、知能、能力、環境、経験など人によって皆違い、これらは全てこの世の物です。しかしそれらの違った環境であったとしても、その置かれた場で努力して働くなら同じ永遠の命をもらえるのです。しかしルカが伝えようとしたことは、この世をどう生きるかで来世の輝きが違ってくるということです。同じ1ムナとは、この世の物ではなく天のもの・神のものです。天のものは同質であって多い少ないという事はありません。信仰は一つ、洗礼も一つ、主は一人、聖霊も一つ、裂かれるパンも一つです。使徒たちと違った聖霊が降るはずはなく、違った信仰をもらうわけでもなく、違った聖パンを食べるわけでもありません。しかし、同じ信仰、同じ聖パン、同じ聖霊を受けても、一人ひとりの信仰の成長は違います。太陽は一つであって同じように照らしますが、受け入れる人の受容の度合いによってその効果は変わってくるのと同じです。だから、どのような信仰の実を結ぶかは本人次第であって、本人の意思に委ねられています。教会を変わったところで、本人が変わらなければ、結ぶ実も同じです。本物の人はどの教会、どの教派にもいます。信仰生活が長くても、短くても神に感謝し、神を愛する人はいます。

③【ムナを使わなかった僕の愚かさ】

20~21節を見るとほかの者がやってきて「ご主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったからです。」といいました。彼は布に1ムナを包んでしまい込み、用いようとしませんでした。この布とは自分自身です。(マタイは土に埋めている)そして彼はイエス様のことを「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方」といいました。あなたは与えないで厳しい要求だけをする方、種もくれないのに実りだけを要求する方という意味です。彼にとってイエス様のイメージというのは恐ろしく、厳しく、ケチな方でした。罪を犯したアダムがそうでした「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」(創世記3:10)この者は、そこからぜんぜん変わっていない、成長していないということになります。イエス様と父なる神様を知ることが永遠の命(ヨハネ17:3)なのに、イエス様を知ろうとしなかったのです。「主人は言った。悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。」(22~23節)これはイエス様の皮肉です。私のことをあなたはそのように理解し、思っていたのか、それならあなたの言葉の通りにしてあげようというのです。人は自分の量る秤に従って、量り与えられます。(マタイ7:2)神を恐ろしい方、赦してくれない方であると思うなら、そのように神はあなたにされるでしょう。いつくしみ深い方だと思うなら、そのようにしてくださるでしょう。イエス様が、生涯をかけて教えて下さった神のイメージというのは、神はお父さんであり、優しく、情け深く、慈愛に富む方であるというものでした。それをどうして学ばなかったのでしょう。
「ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来た時、利息付きでそれを受け取れたのに。」(23節)とあります。この場合「銀行」とは、教会をさしています。教会に自分をまかせ、教会の言われるとおりに生活すれば信仰という利息が生まれるのです。結局、彼は与えられた1ムナを取り上げられ、10ムナ持っている者に与えられてしまいました。 そして王は「誰でも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」(26節)といわれましたす。信仰を持っている人は、さらに与えられて豊かに信じるようになるが、信仰のない人は与えられている信仰もやがて失いますということなのです。あなたに1ムナの信仰が与えられたのは神の恵みです。信仰はただではありません。与えられたのには目的があります。信仰をもって神の為に働くためです。まず自分のため、次に隣人のためです。隣人のために祈り、隣人を愛するために与えられたのです。だから洗礼を受けてそのままではいけません。ユダヤ人は与えられた信仰を、隣人の為に使わなかったので取り上げられ、外国人に与えられたのです。私たちも同じです。

先週読んだ詩編の27に「彼らがわたしに対して陣を敷いても、私の心は恐れない。私に向かって戦いを挑んできても、私には確信がある。」(27:3)、「父母は私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せて下さいます。」(同10)という言葉がありました。この彼の確信はいったいどこから来るのでしょうか。彼は自分の回りの状況に左右されません。私たちが求めなければならないのはこのように神に対する絶対的な信頼でしょう。人生の最後にこの確信がなければそれこそ動揺するでしょう。世の人は自分の回りの状況が良くなることを願います。しかし多分、世は変わらないでしょう。コロナが終われば次の疫病がやって来るでしょうし、世界中から戦争や争いはなくならないでしょう。一人の人間を見ても、次から次へと病に罹り、問題はなくなりません。問題があっても大丈夫、病気であっても大丈夫、という信仰、心の状態を「アパティア」といいます。「不動の心」と訳します。修道士たちは「静けさ」と呼びました。

●インドのカルカッタで「死を待つ人の家」で働くシスターたちにもこの静けさがあります。フィリップ・ヤンシーはこう書いています。「この修道女たちがもっとも私に感銘を与えるものがある。それは彼女たちの平静さだ。…彼女たちの平静さの源は、一日の仕事を始める前の出来事にさかのぼる。太陽が顔を出すよりずっと早い、朝の四時にシスターたちは起きる。清潔な白い修道服をまとい、礼拝堂へ向かう。そこで共に祈り、賛美するのだ。」

イエス様はいつもその「静けさ」を持っていました。イエス様は嵐でも船の中で神様を信頼してぐっすり眠っていました。一方弟子たちは恐怖におびえ「私たちが死んでもかまわないのですか」とバタバタしていました。イエス様は水の中に沈んでも必ず浮いてくること、つまり死んでも必ず復活することを確信していたのです。イエス様が復活しても、弟子たちは恐れて部屋の中に閉じこもっていました。彼らから恐れがなくなったのは聖霊が下ってからです。聖霊がイエス様が誰であるのかをはっきりと教え、イエス様がしてくれたことが大きく見えてきたのです。祈っていると、イエス様がはっきりと見えてくるので、確信が生まれます。確信が生まれると自信と平安が生まれます。聖霊こそ私たちが一生かかって獲得しなければならないものなのです。

●19世紀のサーロフのセラフィームはこう語ります。「み言葉である神、私たちの主、神人イエス・キリストは私たちの一生を市場にたとえています。地上での私たちの生活を彼は商いと呼んでいます。彼はすべての者たちに『私がやってきて時代を救うまで商いをしなさい。というのも日々は悪なのですから』と言われます。つまり、地上のものを手段として天上の善を獲得するため、時を用いなさい。…聖霊の恵みを他のすべての徳とともに獲得しなさい。キリストの為にあなたに最高のものを返してくれるものと取引しなさい。神の恵みという資本を集め、それを神の永遠の銀行に収めなさい。…聖霊の獲得がキリスト教徒の人生の目標なのです。」

聖霊はいつも人の中に住むわけではありません。この世の物でいっぱいになった人の中には入れないのです。だから絶えず求めなければなりません。この聖霊は天から来る方であり、神のものを持って来てくれます。神は移り変わりも、変化もなく、完全な平和と静けさの中におられます。聖霊だけが私たちに変わらない平安と静けさを下さいます。イエス様自身「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)といわれました。この世の物は何一つ、向こうの世界にもっていけません。永遠に残るものだけしかもっていけないのです。永遠に残るもののために働き、商売をしたいと思います。 聖霊はいつも人の中に住むわけではありません。この世の物でいっぱいになった人の中には入れないのです。だから絶えず求めなければなりません。この聖霊は天から来る方であり、神のものを持って来てくれます。神は移り変わりも、変化もなく、完全な平和と静けさの中におられます。聖霊だけが私たちに変わらない平安と静けさを下さいます。イエス様自身「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)といわれました。この世の物は何一つ、向こうの世界にもっていけません。永遠に残るものだけしかもっていけないのです。永遠に残るもののために働き、商売をしたいと思います。