2021年2月28日(日)主日朝礼拝説教

『神の家族』

ダニエル9章17~23節、ルカ福音書15章11~24節

井上 隆晶 牧師

①【人生を浪費させる罪、貧しさが与える恵み】

今日は放蕩息子の譬えからお話をしましょう。この譬えで父親は神様を、二人の息子は私たち人間のことをさしています。下の息子は「私がいただくことになっている財産の分け前をください」(12節)と父にいうと、父は黙って兄にも弟にも財産(家畜や土地など)を分けてあげます。弟はさっそくそれをお金に変え、遠い国に旅立ちます。財産をお金に変えたのは、お金があれば自分の欲しいものを手に入れ、自分のしたいことをすることができるからです。そしてそれが最高の幸せだと彼は思いました。ところが彼は放蕩の限りを尽くし、財産を無駄遣いし、すべて無くしてしまいます。私たちも同じです。知性を、命を、時間を、若さを、肉体を、多くの人の愛を無駄にしてしまいました。教会に来ているNちゃんを見ていると、こんな時があったなあと思います。すべての時と幸せは過ぎ去り、二度と戻ってきません。まるで夢のようです。指の間から落ちてゆく砂のように、すべての恵みは過ぎ去ってゆきます。罪はせっかくの恵みを無駄にし、実を結ばせないもののために浪費させます。教父たちは「罪とはコントロール能力を失うことである」といっています。
何もかも使い果たした時、ひどい飢饉が起こり、彼は食べるのに困り始めます。そこで彼はその地方、つまり神から遠く離れた場所に住む人(悪魔のひな型)の所に身を寄せます。悪魔は彼に豚の世話をさせます。豚はイスラエルでは汚れた動物ですから、悪魔は生きていくためには罪を犯して心を汚しても仕方がないではないかとささやきます。社会とはそういうものです。「現実は厳しいのだ、綺麗ごとをいっても生きていけない、神様に頼っても生きていけない、悪と妥協しなさい、皆していることだ、もっと賢くなりなさい」とく取引を勧めます。一応生活はできるようになるのですが、それでも彼の空腹は満たされません。彼は豚以下になります。人が神以外のものを頼りにしても、人の魂は決して満たされないことを教えています。

●心の病の勉強会で西川京子先生は「人は失敗をする権利を持っています。」と言われたことがありました。失敗しなければ分からないことがあるのです。父なる神様はそれを知っておられました。財産が無駄になると分かっていながらあえてそれを分けたのです。失敗をマイナスととらえないで、失敗も回復の一つのステップだと考えたからです。

先週の聖書朗読の中でホセア書を読みました。「イスラエルはのびほうだいのぶどうの木。…実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。」(ホセア10:1)と書かれていました。ホセアの時代、国は豊かでした。それなのに異教の祭壇や柱(シンボル)が増えたというのです。普通、豊かだったら必要が満たされているので神を求めないはずです。しかし益々偶像を求めたというのは、欲望が満たされなかったからです。大阪弁でいうと「この神さんは願いを聞いてくれへん。西宮の神さん、島根の神さんはよう願いを利いてくれはるって聞いたで」といって転々と偶像を求めて歩き回るようなものです。豊かさは神から私たちを引き離します。光が強いと視覚が失われるように、恵みが多いと逆に恵みが見えなくなるのです。むしろ貧しさが私たちを神へ向かわせます。だから神様は人に貧しさを与えます。罪を用いてその人を貧しくさせるのです。貧しいことは悪いことではありません。貧しさは私たちの魂を研ぎ荒ませ、心と目を神に傾かせます。教会が断食を命じるのもその為です。心の貧しい者は幸いであり、天国はその人のものです。

②【回心とは~我に返り、立ち上がり帰ること~】

飢えと貧しさが究極までいった時、「彼は我に返って言った」(ルカ15:17)とあります。「我に返る」とは何でしょう。英語では「when he come to his senses」です。「正気に返る、迷いがさめる」という意味です。口語訳では「本心に立ち返って」と訳しています。

●これと同じことを聞いたことがあります。ある薬物依存症の青年が、何度も刑務所に入りました。ある時刑務所の中で「自分はいったい何をしているんだろう」と思ったというのです。また、あるアルコール依存症の人は仕事を失い、住む家を失い、釜ヶ崎で酒を飲んでいる時にTVを見ながら「自分はいったいここで何をしているんだろう」と思ったというのです。その時から彼らの回復が始まりました。

息子は故郷と父の愛を思い出しました。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(17節)。彼は故郷を知り、父の豊かな愛と温かさを知っていました。それを思い出したのです。美しかった自分、愛に満たされていた自分、喜びに溢れていた自分を思いだしたのです。そして私は美しかったのに醜くなった。私は豊かだったのに貧しくなった。私は素直だったのに強情になった。私は一体何をしているのだろう、ということに気がついたのです。これを教父たちは「聖なる憧れ」と呼びました。人間は誰もがこの「聖なる憧れ」を持っていると思います。それは私たちの中に埋め込まれた神の像、神性の断片です。もしこれがなかったら神を求めることも、帰ることもできないでしょう。これは罪をもってしても破壊できないものです。それだけではありません。親や人に愛された思い出でもあります。

●不思議なことにカルトの説得の時、幼い時に親や他人に愛された人は辞めるのですが、愛されなかった人はカルトにしがみついて辞めないのです。本物の愛を知っている人は、偽りの愛に気づきますが、本物の愛を知らない人は、気づけないから偽物にしがみつくのです。カルトだけではなく、夫婦でも親子でもそうです。愛を知っている人は、それを失った時、その愛に戻ろうとするのです。だから愛すること、愛の思い出は大事なのです。教会が心が飢え渇いて来る人を受け入れ、愛することは大事なことなのです。教会から離れても、愛された思い出は消えず、いつかその神の家である教会に帰りたいと思うからです。

息子は自分の過ちを認め、父に罪を告白する決心をしました。「お父さん、私は天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(18~19節)ここで息子は自分の正しさも、息子としての権利も放棄していることをお気づきでしょうか。最初はそうではありませんでした。「私がいただくことになっている財産」(12節)といって自分はもらって当然と思い、正しさと権利を主張しています。人は過ちや失敗を犯すことによって謙虚になり、自分の正しさも権利も主張できなくなります。天国では誰も自分の正しさも権利も主張しないでしょう。
そして彼はそこを立ち、父親のもとに行きました。回心はただ過ちに泣くことではなく、行動を伴います。「ここを立ち」(18節)「そこを立ち」(20節)と二度繰り返されています。神の元に帰るという行動が必要です。このように、悔い改めとは、法的な過ちに対する罰を恐れて、悪事をやめることではなく、むしろもっと積極的なものであり、善への回帰、善いものを憧れることです。そして失った美しさを手に入れるために決断して立ち上がり、それを行動に移し、旅を始めることです。

③【神と人間は家族であるということ】

すると「遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20~21節)とあります。息子が父を見つけるより先に父が息子を見つけ、息子が父に走り寄るのではなく父が息子に走り寄ります。あなたが神に一歩帰るなら、神はあなたに100歩近づいてくれます。息子は謝罪の言葉を言うのですが最後まで言えません。「雇い人の一人にしてください」という文言がありません。父はほとんど聞いていないようです。急いで最上の上着を着せ、指輪を渡し、履物を履かせるように僕に命じます。最上の上着は朽ちない体、指輪は神の子の資格、履物は自由を象徴しています。父の悲しみは、財産が失われたことではなく、息子が失われたことなのです。財産が帰って来たことを喜んだのではなく、息子が帰って来たことを喜んでいるのです。神が何を喜ばれ、何を望まれるのかがお分かりでしょうか。あなたが失った物をがんばって償うことではないのです。あなたが帰ることなのです。これを福音といいます。父は言います。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(23~24節)息子は肉体においては死んでいませんでしたが、霊的な意味で死んでいたのです。なぜなら命の源である神からの分離は死であり、命に帰ることは生き返ること(復活)以外の何ものでもないからです。父が喜んでいます。息子は愛されるがままです。息子はすべてを失って初めて、決して失われない神の愛を、本当に自分の帰るべき家があることを知りました。

●フィリップ・ヤンシ-はこのようなことを書いています。「創世記を読んでみよう。そこには家族の歴史が書かれている。それはアダムとエバの家族で始まる。…読み続けるとアブラハムの家族に出会う。何十年もかかって旅をした家族だ。それからイサクの家族の物語が、そしてヤコブの家族の物語が続く。…家族の歴史を語る聖書とは対照的に、教科書が語っているのは文明の起源と滅亡の歴史である。今日の新聞をにぎわせているのは、国家、都市、大学、政府機関、企業についての記事だ。焦点は家族から組織へと移っている。だが、新約聖書は、教会を組織よりも家族のようなものとして、頑固なまでに提示している。」

家族ってどのようになるのでしょう。子どもはただ生まれてきただけで家族になります。能力があるからではありません。障害があっても、病弱であっても一生家族なのです。神の子たちも同じです。洗礼によって神に生んでもらっただけで神の家族になるのです。父親にとって、家にいた上の息子も、家から離れた下の息子も同じ家族なのです。ジョン・ウエスリーの母親はこういっています。「子どもたちのうちどの子を一番愛しているかって?病気の子が良くなるまではその子を、家を離れた子が戻ってくるまではその子を愛します。」神の愛は等しく、どの人にも同じように注がれています。

旧約聖書を読むと、イスラエルをどこまでも追いかけ、語り続け、待ち続ける神の姿を見ることが出来ます。神がなぜ、それほどまでに失われた人間を待ち続けるのかは、人間が神の家族だからです。。キリストが天から地に下り、私たちを捜し、私たちの負い目を負い、苦しむのも家族だからです。今回、これに改めて気がつきました。神の教会は、組織であるよりも家族でなければなりません。生産性や効率を重視するよりも共にいることを大切にしなければなりません。家族だからこそ問題や矛盾を含んだまま歩き続けなければなりません。苦しみを分け合い、罪を負い合いなければなりません。それでこそ教会は神の家となれるのです。