2021年2月21日(日)主日朝礼拝説教

『義とされて家に帰ったのは』

箴言15章1~5節、ルカ福音書18章9~14節

井上 隆晶 牧師

①【神殿に上がった二人の人】

ファリサイ人と徴税人の二人が祈るために神殿に上りました。ファリサイ人とは神様の掟と法を守ることに厳格な人たちのことです。徴税人は先週も話をしましたが税金を集める人です。皆から嫌われ、罪人というレッテルが貼られていました。ファリサイ人は立って心の中でこう祈りました。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(11~12節)すごい祈りです。あなたがもし「神様、私はこんな人でないことを感謝します」と真横で言われたらどうでしょう。辛いですよ。SNSの誹謗中傷の書き込みで自殺した人も大勢います。言葉は凶器です。人を殺すことが出来ます。でもファリサイ人は、心の中で祈ったのであって、表に出た言葉はもっと謙遜な言葉だったかもしれません。でも神様は心の中を見ておられます。心の中で他人と自分を比較し、人を見下すことはないでしょうか。私たちはファリサイ人と違うと言えるでしょうか。一方徴税人は遠くに立って、目を天に上げようとせず、胸を打ちながら言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(13節)顔を上げることが出来ないというのは、自分の悪や罪を認めているということです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」これが最も短い教会の祈り「キリエ、エレイソン」になりました。

②【義とされて家に帰ったのは】

イエス様は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(14節)といわれました。神様に受け入れられたのはファリサイ人ではなく徴税人だというのです。「義とされる」というのは、私たち日本人にはあまり聞きなれない言葉です。「義」とは「正しい」という意味ですから、ここでは「正しい者とされた」という意味になります。しかしパウロは「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と言い、イエス様自身も「神おひとりの他に、善い者は誰もいない。」(ルカ18:19)と言われました。正しい人は誰もいません。人は死ぬまで正しい人にはなれません。「義」というのをそのまま理解してはいけません。これは宗教用語であって「関係の言葉」だと思ってください。つまり「神様との関係が正しくなったのはこの人だ」という意味です。
いくら良いことを行い、神の戒めを忠実に守ったからといって、神様との関係は正しくならないということです。良いことが出来なくても「悔いし砕けた魂」を持つ人は、神様と正しい関係を持つことができるのです。大切なのは謙遜な心、砕けた心です。自分の正しさを捨て、神に憐れみを求める心です。 では良いことを行わず、神の戒めを守らなくてもいいのでしょうか。そうではありません。律法は神が造られた良いものであり、人間として守らなければならないルールです。人を殺すな、姦淫するな、両親を敬え、人の物を欲しがるななどは守らなければなりません。ここでいっているのは、せっかく神の戒めを守っても、もし心が高慢になり、人を見下し、自分を正しい者とするなら、せっかくのそれらの善行がすべて無駄になるということを言っているのです。祈祷書の中にこのような祈りがあります。「私にはファリサイ人の良い行いも、徴税人の謙遜な心もありません。主よ私を憐れんで、この二つを私にお与えください。」善いことを行いながら高ぶらず、へりくだるにはどうしたら良いでしょうか。

③【神に向くとき、罪も善に変えられる】

このファリサイ派の人はどうして、せっかくの善行を無駄にしてしまったのでしょう。もう一度、彼の祈りを直訳して読んでみましょう。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを(私は)感謝します。私は週に二度断食し、全収入(私が得たすべてのもの)の十分の一を献げています。」(11~12節)英語では4回も「私」という言葉が出てきます。彼の祈りは「自分という臭い」でぷんぷんしています。彼は神様がしてくれたことを数えず、自分がしたことを数え上げて感謝しています。彼の問題点は、神中心ではなく自分中心であるということです。彼の目は神に向かず、自分に向いています。しかし自分に頼る者は、いつか必ず崩れてしまいます。人間は必ず変わり、弱くなり、できなくなるからです。自分が何も出来なくなったらいったい何を感謝するのでしょう。
罪を犯すということは普通は神との関係が壊れ、切れてしまうということです。しかしここではその罪ゆえに心が砕かれ、へりくだる者とされ、神との関係が回復しています。不思議なことに、罪が人を神に近づける役割をしているということです。たとえ罪を犯しても、神に向き直るなら、その罪は善を生み出すものに変えられるということなのです。反対に善い業を行ったとしても、神に向いて生きないなら、そお善行は悪を生み出すものに変えられてしまうということなのです。大事なことは、どんな時も神に向かって生きることです。「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」(詩編119:68)という言葉を思い出しましょう。神が触れたすべてのものは癒されるのです。

④【すべての人は同じであって神の憐れみを必要としている】

ファリサイ人は「神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(11節)と祈りました。「…のような者ではない」という表現に注意して下さい。「私はこの人たちとは違う」と言っているのです。柳生直行さんは彼の本の中で「エゴイズムまたの名を傲慢さは何よりもまず、自分と他者との間に差をつけるという形で現われます」と書いています。自分の方が優れていると思い、自分を安心させようとしているのでしょう。これは人の中にある根深い恐れと不安から来ているものだと思います。人間は違いがあると思っていますが、聖書に出て来る神様は善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ、9時から働いた者にも、夕方の5時に来た者にも同じ賃金を与えます。神様の目には善人も悪人も違いがないと映っています。

●フィリップ・ヤンシーは『教会~なぜそれほどまでに大切なのか~』という本の中でこんな話を載せています。
「私がAA(アルコホリック・アノニマス=アルコール依存症者自助グループ)に出席した晩、部屋にいた人たちは皆、赦しと力を求めて神に全くより頼むことを表明する12のステップを復唱した。…私は友人に尋ねた。AAにあって地域の教会にないものは何か、と。…彼が静かにひと言つぶやいたのは「依存」という言葉だった。「僕たちは誰一人自分の力だけではやっていけないんだ。だからこそ、イエス様が来て下さったんじゃないのかい?でも、教会の大多数の人たちは、自分たちは敬虔で優れているというふうな自己満足の雰囲気をかもし出している気がする。僕には、その人たちが本当に神様やお互いにより頼もうとしているようには感じられないんだ。その人たちの人生は順調に見える。アルコール依存症の者がそんな教会に行くと、自分は欠点だらけの落ちこぼれだとしか思えないんだ。」「おかしなことだね。自分の最も嫌なところ、つまりアルコール依存症ということを用いて、神様は僕をみもとに連れ戻してくださったんだ。アルコール依存症だからこそ、僕は神様なしで生きていけないとわかるんだよ。一日一日を生きるために神様により頼まなければならないんだ。」

AAの12ステップは、もともとお酒をやめられなかったクリスチャンが「より良いキリスト者になるため」に作ったものですから、キリスト教徒の為のものなのです。少し紹介すると、

1.私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。2.自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。3.私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。4.恐れずに、徹底して自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。5.神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。6.こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。7.私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。8.私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。…10.祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。

AAでは「やあ、僕はトムです。アルコール依存症で麻薬常習者です」と自己紹介します。自分が回復できる唯一の方法は、同じ苦しみを抱える者同士で正直にオープンに自分の話をすることでした。そのために無名にし、生活や社会的立場の差を無くすことをします。すべての人は皆同じ罪人であることがとても重要なのです。

●ドストエフスキーは「罪と罰」という小説を書きました。マルメラードフは貧しく、妻に先立たれソーニャという娘と生活していましたが、幼い子供を抱えた女性と再婚します。ところがその後妻が結核になり働けないのでソーニャが身を売って家族を養います。マルメラードフは毎日酒浸りになり、酒場でこう言います。「わしはこの小瓶に悲しみを求めた。それを見出し、味わったんだ。ただ万民を憐れみ、すべてを知られる神様だけが、我々を憐れんで下さる。…最後の日にやってきてこう言われるだろう。『意地の悪い母のために、他人の子どものために自分の身を売った娘はどこだ。酔っ払いで、やくざ者の父親をも気の毒に思った娘はどこだ。さあ、来なさい。お前の多くの罪も赦される。お前が多く愛したゆえに。』こうして娘のソーニャは赦されるのだ。…赦されるとも、わしはもう分かっている。きっと赦されるに違いない。さっきあの娘のとこへ行ったとき、この胸ではっきりと感じたんだ!…神様は万人を裁いて、万人を赦される。善人も悪人も、賢い者も、謙虚な者も、…そしてわしも召して下さる。お前たちも来なさい。…すると善人たちが『神様、なぜ彼らをお迎えになるのですか』という。するとこう言われる。『私は彼らを迎える。彼らの中の誰一人として自分が天国にふさわしいと思う者がいないからだよ』と。こういって我々に手を伸ばして下さる。…主よ、あなたの御国が来ますように。」

ドストエフスキーは「自分は天国にふさわしくない」と思う人は神の国に入るのだといっています。そういえば、イエス様の十字架の右の強盗も「ただ、私のことを思い出してください」と祈りました。百人隊長も「あなたを屋根の下にお迎えする資格はありません」といいました。右にいる羊たちも「あなたに何一つ良いことをしたことはありません」といいました。自分で、自分はどうしようもない者だと思う全ての人たちに、神の国は開かれているのです。イエス様はそんな人たちに手を伸ばして「さあ、あなたも私の国に入りなさい、私の愛と憐れみを受け取りなさい」と言って下さるのです。