2021年2月14日(日)主日朝礼拝説教

『ザアカイの憧れ』

詩編119篇81~88節、ルカ福音書19章1~10節

井上 隆晶 牧師

①【ザアカイの心の飢え渇き】

エリコの町にザアカイという人がいました。エリコはたいへん豊かな町で、乳香を造るバルサムの木(マツ科、モミの木)が生えている森があり、その香りはとても強く数キロ先まで漂っていたといいます。そこのナツメヤシは世界に輸出されていたので収税所(税務署)がありました。徴税人たちは占領国であるローマに代わってイスラエルの民から税金を集める仕事をしていましたから、同胞から嫌われ罪人と呼ばれていました。よく聖書には罪人の代表として出てきます。彼らは仲間外れにされ、口も利いてもらえず、無視され、友人もいませんでした。ザアカイはそんな徴税人の頭で、お金持ちでした。
愛の反対は「無関心である」とマザー・テレサはいってますが、人間にとって無視されるということは、自分の存在を否定されることですから、社会の中に居場所がなくなるわけです。その心の寂しさをまぎらわすために彼は仕事に没頭し、お金持ちになったのだと思います。このザアカイがなぜか「イエス様がどんな人か見たいと思った」というのです。自分と同じ徴税人マタイを弟子にしているという噂を聞いたのかもしれません。ザアカイは裕福だったのですが物では心は満たされなかったということです。人は物では満たされません。人は愛で満たされるようにできています。物は愛ではありません。でもその物に人の愛が加わって手渡されたら、愛は伝わります。物は愛を伝える手段にしかすぎません。相手が欲しい物を覚えておく、相手が喜ぶだろうと思って買う、その相手の心を知ってうれしくなるのです。

●先日、買い物に行ってレジでお釣りをもらう時に、皿の上にお釣りを置くのでなく、手渡しをされました。その時、心に「暖かさ」を感じました。人の手のぬくもり、柔らかさは、私たちに愛の心を伝えるためだと思います。

②【病人が医者に必死に治療を求めた時、良い医者は喜んで来てくれる】

そこでザアカイはイエス様を見るために出かけたのですが、「背が低かった」(19:3)ために、群集に遮られてイエス様を見ることが出来ませんでした。聖書の中で、身体的特徴が書かれている人は数人です。彼はどうしたかというと、諦めないで走っていって先回りし、いちじく桑の木に登りました。なぜ彼はそこまでしたのでしょう。何かに突き動かされるということが人にはあるものです。私はそれは人間の中に眠っている「聖なる憧れ」だと思います。やがてイエス様は、その木の下まで来ると、足を止められ、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5)ザアカイはイエス様が自分の名前を知っていたことに驚いたと思います。ユダヤ人は罪人とは会話をせず、共に食事したり、家に入ることもしません。一度社会から罪人というレッテルを貼られたら誰も話しかけてくれないし、家に来てくれないのです。でもイエス様はそんな自分を受入れ、名前で呼び、親友のように扱ってくれました。ものすごくうれしかったと思います。彼は急いで木から降りてきて、喜んでイエス様を家に迎え入れました。しかし、人々は陰でつぶやきました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7節)人々はイエス様の行動が理解できません。「イエス様はあの人がどんな人か知らないのだろうか、どうしてあんな人の友になるのだろう」といったのです。
ザアカイは立ち上がりイエス様に言いました。「私は、財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから、何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)律法では、盗んだ物を返すときは二倍でした。自首した場合は同額に五分の一を加えて返すという決まりでした。ところが彼はそれを四倍にして返すと言ったのです。しかも財産の半分を貧しい人に与えますというのです。お金を友としていたザアカイがお金を手放すことができるほどに、イエス様との出会いは彼を変えてしまったのです。彼の喜びが伝わって来るようです。ここで気を付けて読まなければならないのは、イエス様がザアカイを受け入れたのは、彼が回心し、良い人になったからではないということです。彼がイエス様を必死に求めたからです。ただその一点です。もし私たちがイエス様を心から必要とするなら、あなたがどれだけ汚れていても、主はあなたの中に来て下さるということです。私たちは病人です。病人が医者に必死に治療を求めた時、良い医者は喜んで来てくれるものなのです。

③【失われたものを捜して救う】

イエス様は言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9~10節)イエス様はザアカイのことを「この人もアブラハムの子なのだ」といわれました。ザアカイも神の子だという意味です。イエス様は神様に造られたその人の本来の姿を見ておられます。又彼のことを「失われたもの」といいました。「失われたもの」という言葉は、聖書では人が「間違った場所にいること」を意味しています。ある物が本来あるべき所から離れ、誤った所に置かれているとき失われたといいます。人は神から離れている時、失われているのです。罪人の頭といわれたザアカイがイエス様の元に帰ったということは、彼が正しい位置(場所)に戻ったということなのです。戻ったら彼の中に眠っていた善が開花し、動き出したのです。「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」と主はいわれました。人間は自分が神を捜していると思っているかもしれませんが、実は神様の方が先に人を捜しているのです。なぜなら人は皆、神の像が刻印されている神のものだからです。「神のものは神に返しなさい」です。人が神を捜し始めた時、その捜しておられる神と出会うのです。イエス様はザアカイを捜していたのです。人間がエデンで罪を犯した時から「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)とあなたを捜していたのです。そしてあなたを見つけた時、あの羊飼いのように「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(ルカ15:6)といって喜んで肩に担いで、私たちを天の国に連れて行って下さるのです。

④【あなたの目は何を見ているか】

最後に、この物語のテーマは「見る」ことです。「見ようとした」「見ることができなかった」(3節)「見るために」(4節)「上を見上げて」(5節)「これを見た人たちは」(7節)と「見る」という言葉が5回も繰り返されています。人の目は求めているものに向くものです。ザアカイの目はこの時、イエス様に向いていました。どこまでもイエス様を追い求めました。その昔アダムは神の顔を避けましたが、ザアカイはその神の顔を必死に追いかけました。ここに新しい人間の始まりを見ます。強い願望は人間の限界を越えさせることがあります。ザアカイの背の低さは、私たち人間の弱さ、限界、罪深さ、能力の低さを象徴しています。しかしザアカイの「どうしてもイエス様を見たい」という望みは、彼の弱さを克服しました。ザアカイの物語は、私たちの罪深さ、肉体の弱さ、能力の弱さ、たとえ障碍や病気があったとしても、あなたが神と出会うための何の障害にもならないことを教えています。本当の妨げは、「弱さ」でも「罪深さ」でもなく「キリストに期待しない」ことです。
私たちの命は正しくキリストに向いているでしょうか。この時、ザアカイの目と全身が、お金でもなく、人でもなく、キリストに向きキリストに期待したということなのです。彼の命は正しい方向に向いていました。それを回心といいます。回心とは、自分の失敗や過ちを泣くことではなく、キリストを頼り、キリストに期待し、キリストに希望を置き、私たちの命をキリストに向けることなのです。つまり命の方向性の問題なのです。罪が神という的を外すという意味なら、回心は神という的に向かうことなのです。

讃美歌21の434番「主よ、みもとに」の5番「天翔けゆくつばさを与えられるその時、われら歌わん、われら歌わん、主よみもとに近づかん」は直訳に近いのですが、前の讃美歌の訳だと「うつし世をば離れて、天がける日きたらば、いよよちかく、みもとにゆき、主のみかおを仰ぎ見ん」となっています。移り行くこの世を離れて、天を自由に羽ばたく日が来たなら、ますます近く主の御許に行き、主の御顔を仰ぎ見るだろう、です。私はこちらの歌詞の方が好きです。

●1923年9月1日関東大震災が襲いました。その時横浜のフェリス女学院の院長をされていたアメリカの婦人宣教師のJenny Kuyper(カイパー)先生が倒壊した校舎の下敷きになって身動きできなくなりました。先生を懸命に助けようとした数名の女学生達に向かって先生は「地震まだ終わってない。あなた達危ない。逃げなさい早く。私は何とかなります。私には神様がついて下さっています」と言われました。でも先生が懸命に埋もれた瓦礫から外に出ようと努力をしたのにも拘わらず、炎の方が早くやって来てしまいました。先生は、懸命な努力をされながら、この讃美歌21の434番「主よ、みもとに」をご自分の母国語の英語で歌い続けられながら殉職されました。

この賛美歌を聞くと、涙が出てきます。何か心が透き通り、希望が湧いてきます。私たちは今は鏡におぼろに映ったものを見ていますが、天の故郷に帰り、復活した時には、顔と顔を合わせてキリストの御顔を見ることになるでしょう。(Ⅰコリント13:12)キリストにはっきり見られていたように、今度は私たちがはっきりとキリストの顔を見るでしょう。人の目は本来、神を見るように作られていたのですから、その時、その本来の視力を取り戻すでしょう。心の清い者は神を見るからです。この世では被造物は悲しいものです。すべてに始めがあり、終わりがあるからです。
愛犬のメルクはもう両目の視力がありません。もうこの世では二度と草原を駆けまわることも、美しい自然を見ることも、私たちの顔を見ることもできないでしょう。でもこの子は私たちを慰め、励ましてくれました。来世では新しい視力が与えられて天を翔け回ることでしょう。被造物も私たちと共に自由な救いに与るからです。(ローマ8:21)私たち人間の罪が、被造物に苦しみと死を与えました。でも彼らはそれを黙って負って耐えてくれています。ああ、私は何と罪深いことでしょう。自分の罪で多くの人を悲しませました。でも、キリストがその呪いを終わらせてくれました。感謝です。私たちもザアカイのようにキリストの御顔を求めましょう。そして神様が造られた本来の自分に帰りましょう。