2021年2月7日(日)主日朝礼拝説教

『荒れ野の誘惑』

ヤコブ4章4~10節、マタイ福音書4章1~11節

井上 隆晶 牧師

①【人間の二通りの生き方】

イエス様は悪魔から誘惑を受けるために、‶霊″に導かれて荒れ野に行かれました。
‶霊″というのは「聖霊」のことです。聖霊が悪魔から誘惑を受けるように導いたということは、悪魔の誘惑を神は許しておられる(試験のようなもの)ということです。「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」(2節)とあります。この言葉は私たちに疑問を与える言葉です。人は40日間も断食しなくても1日、いや一食抜いただけでも空腹を覚えます。多分40日というのは象徴数でしょう。これは単なる「空腹」ではないでしょう。英語の聖書では「hungry」です。「飢えた、渇望する」という意味です。空腹よりもっと厳しい状態です。人はいつも飢えています。愛に飢え、慰めに飢え、優しい言葉や態度に飢え、命に飢え、平安に飢えています。決して満足することはありませんし、一時的に満たされてもすぐに飢え渇いてしまいます。「hungry(飢え渇き)」とは人間性をもっとも表す言葉です。人はいつも飢えていますが、神は飢えることがありません。ここでイエス様は人として誘惑にあっています。 「飢えた」時に誘惑する者がやって来ます。何で飢え渇きを満たすか試されるということです。この「誘惑する者」とは英語の聖書では「tempter」ですが、1節に「悪魔から誘惑を受ける」と書いてありますから悪魔のことであり、悪魔の性質を述べた言葉です。誘惑というのは国語辞書では「悪い方へ誘い込むこと」と書かれていました。悪い方とは何でしょう。 神様はエデンの園の中央に命の木と善悪の知識の木という二本の木を生えさせ、善悪知識の木から決して食べてはいけない、食べると必ず死ぬと命じられました。「食べろ」とは「生きろ」ということですから、「食べるな」とは「そういう生き方をするな」という意味になります。つまり人間の前に「生きなければならない生き方」と、「生きてはいけない生き方」の二つの生き方を選択できるようにしたということなのです。そして最初の人間から始まって、今に至るまですべての人間は生きてはいけない生き方を選んでしまいました。それを考えると、このイエス様への誘惑も、「生きてはいけない生き方」をさせようとしている誘惑であると考えることができます。「生きてはいけない生き方」とは、善悪知識の木から食べて神のように賢くなり、神に聞かず、神に頼らずに自分の力と知恵で生きる生き方のことです。それをここで試されているのです。ここでイエス様は新しいアダムとして、古いアダムの不従順を癒そうとしています。

②【三つの誘惑】

悪魔はイエス様に三つの誘惑をしますが、私たちが思っているような誘惑の内容とは違います。それはエデンの園で「善悪知識の木」が人間を引き付けた誘惑と似ています。「その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していた」(創世記3:6)。これについてヨハネは「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(1ヨハネ2:16)と言い換えています。悪魔はイエス様の人間性に働きかけ、自分が神に愛されていることを疑わせようとするものでした。
(1)最初、悪魔はイエス様に石をパンに変えろといいます。しかし主は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)といわれます。これは申命記8:3からの引用です。人間の最大の悩みは「食べていけるか、つまり生きれるか」ということです。これを「肉の欲」といいます。人々の食糧問題を解決したらメシアになれるぞといったのです。仕事をくれる人、食べさせてくれる人を人は大事にします。牧師の世界でも同じです。神学校が人事を握り、教会を斡旋します。牧師たちは食べてゆくために神学校の人事にへつらい、派閥を守ります。口では神に生かしてもらうと言いながら、実際は人にへつらって生かしてもらっています。神の言葉を信じるのは怖いものです。保証がないからです。でも人生の最後は誰も助けにはなりません。神の約束だけが頼りです。
(2)次に悪魔はイエス様を神殿の屋根の上に立たせ、飛び降りて奇跡を見せろといいます。これを「おごりの欲」といいます。神を自分のいうがままに動かし使うのです。神を利用するのです。人々は驚きひれ伏すでしょう。しかも悪魔は聖書から御言葉を引用して誘惑してきました。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩編91:11)という言葉です。しかし主は「主を試してはならない」(7節)といわれます。これも申命記6:16からの引用です。悪魔が聖書を用いるからと言って驚いてはいけません。統一協会も私たちと同じ聖書を読みます。ただ自分に都合の良い個所を用い、都合の良いように解釈します。聖書はもろ刃の剣です。その人の読み方でどのようにも解釈できるようになっています。聖書を読んで分からない時、私たちは自分が無知だからだと思いますが、統一協会は聖書が時代遅れで悪いからだといいます。自分の方が正しく、自分の理想を実現するため、自分の思想に権威をつけるために聖書を利用します。悪魔はキリストの心に、神よりも偉大な者になるように語るのです。
(3)最後に悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世の繁栄を一瞬に見せ、悪魔を礼拝するならこれをすべて与えると嘘をいいます。これを「目の欲」といいます。つまり悪と妥協し権力と富と地位を得れば、人はお前を尊敬し、お前に従い、お前はメシアになれるぞというのです。やはり人間は目から入る大きくて立派で確かそうなものに心が奪われます。しかし主は「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10節)といわれます。これも申命記6:13からの引用です。

③【人間にとどまること】

私たちはここから、イエス様がいかに人間としてとどまり続けたかを学ばなければなりません。悪魔はけっしてメシアになることをやめさせようとしたのではなく、苦難のない栄光のメシアになれと言ったのです。経済問題を解決する王(教会)として、奇跡を行う王(教会)として、この世の権力を得る政治的な王(教会)として人々を救えと悪魔はいうのです。悪魔は何とかして、キリストを「神」にさせたかったのです。エデンの園で悪魔がアダムに「神のようになれる」(創世記3:5)と誘惑したのと同じです。ここでも「神の子なら~命じてみろ」「神の子なら~をしてみろ」と悪魔はイエス様に言います。それは十字架の場面でもそうでした。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」(マタイ27:40)
私は牧師になって32年、いつもこの誘惑を受け続けてきました。教会が奇跡を行い、病気を癒し、苦しむ多くの人の必要を満たし、立派な大きな聖堂と権威と地位を得れば、人々はキリスト教を信じてくれるだろうと思ってしまいます。大きな教会を見ると羨ましくなるのです。また、私たちは奇跡や病気の癒しやしるしを求めます。それが与えられれば自分は神の子であり、神が自分を愛していると思ってしまいます。でも、イエス様は御言葉で満足する道を選ばれました。

●4世紀の聖クリュソストモスはこういっています。「この誘惑は、神との和解を求める私たちに対する一つの課題でもありました。私たちは、奇跡によってではなく、忍耐と長い苦しみによって悪魔を克服しなければなりません。そして、空しい見せびらかしのために何も行ってはなりません。」

●V・フランクルというユダヤ人の精神科医師がいます。彼は第二次世界大戦の時、アウシュビッツ収容所に入れられました。彼は生き延びて、その体験談を本にしましたが、その過酷な環境の中で「人間は悪魔にも天使にもなれることを知った」と言っています。また彼はこのように書いています。「人間の自由というのは、諸条件からの自由ではなくて、これら諸条件に対して、自分のあり方を決めてゆく自由である」

第二次世界大戦の後、親衛隊中佐として数百万のユダヤ人を強制収容所へ送ったアドルフ・アイヒマンが逃亡先で捕まり、エルサレムで裁判が行われました。アイヒマンを見た裁判官たちは驚きました。彼は「怪物」ではなく、極悪人でもなく、普通の人間だったかからです。ユダヤ人哲学者アンナ・アーレントはこう言っています。「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。考えるのを止めたら、人間じゃなくなるのです。」
自分の置かれた環境という条件のもとで生きていかざるを得ないのが人間です。それらの条件と闘って、良い環境にしてゆくことも大切です。しかしそれができない時に、それらの条件に対して自分がどのように生きるかが求められているのです。悪魔や獣のようになって生きるか、それとも人間として生きるかが問われています。私たちは放っておけば落ちてゆくものです。どこまでも落ちてゆきます。悪の力が働いているからです。でも、神はその落ちてゆく人間を天に引き上げ、まことの人間にするために来てくださいました。 ブラザーサン・シスタームーンという映画がありました。アッシジのフランシスコの映画です。クリスチャンになった若い頃に初めて見ました。フランシスコが歌っています。「神に与えられた命、私にも神は宿る、その愛がいま、この胸によみがえる。」讃美歌を歌うと心が洗われます。私たちは神に造られたもの、私にも神が宿ってくださる希望が出てきます。人間にとどまり、人間になる努力をしよう、神様に祈りその力を求めようと思うのです。