2021年1月31日(日)主日朝礼拝説教

『良いものは取って置かれる』

イザヤ書12章1~6節、ヨハネ福音書2章1~11節

井上 隆晶 牧師

①【神の時を静かに待つ】

ヨハネ福音書は他の福音書と違って非常に独特な書き方をしており、それは今日の個所にも表れています。「その翌日」という言葉がここには繰り返されており、この婚宴が第七日目に起こった出来事であることを私たちに悟らせようとしています。最初の日(一日目)は洗礼者ヨハネがユダヤ人に「あなたがたの知らない方が、私の後から来られる」(1:27)といいます。その翌日(二日目)ヨハネはイエス様を見て「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証します。その翌日(三日目)ヨハネの三人の弟子がイエス様についていきます。その翌日(四日目)イエス様はフィリポとナタナエルを弟子にします。それから三日目にカナで婚宴があります。合わせて七日目になります。
当時の結婚披露宴は七日間行われました。その婚宴の最中にぶどう酒がなくなってしまいました。母マリアはイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と相談しました。マリアがぶどう酒の心配をしているのは、この婚宴が親戚の婚宴であり、彼女は接待役だったことを物語っています。それに対してイエス様は「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われます。「婦人よ」というのは冷たい言い方のように聞こえますが、当時の言い方で「お母様」というような意味です。「私とどんな関わりがあるのですか」は「あなたはどうお考えであれ、私には私の考えがあります」という意味です。「わたしの時はまだ来ていません」とはどういう意味でしょう。「時」という言葉は聖書の中で何度も出てきます。「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。」(ヨハネ7:30)ゲッセマネでは「もうこれでいい。時が来た」(マルコ14:41)といわれました。つまり「わたしの時」というのは十字架で死ぬ時のことをいっているのですが、神がその姿や力を現される時だと理解していただければよいと思います。
私たちはすぐに必要が満たされることを願い、すぐに答えを出そうとしますが、神には神の定めた時というものがあって、私たちはその時を待たなければなりません。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト3:1)です。時を待たないで行動すると祝福を失うことになります。神の時を待つには、神を信じなければなりません。母マリアは神の時を待つことができる人でした。彼女は召し使いたちを呼んで「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5節)と言い、ぶどう酒を買いに行かせることもせず、宴会の世話役に相談することもせず、この問題をイエス様にお委ねして待ちました。私が驚くのは、母マリアや召使たちの平静さです。バタバタしていないのです。

●「私の霊的父はたびたび私に言ってくれました。静けさも謙遜さも支配していないすべての思いは、神に従ったものではない。これは明らかに悪霊どもから来た善いすすめと自称しているものなのだ、と。主は静かに来られますが、敵からのものはすべて不安と、いらだちとを伴っています。これに注意してください。聖霊の実りは平和、謙遜、愛、信頼です。敵からの実は不安、思い上がりで、あなた自身の中であなたは自分が分裂しているのを感じます。」(『アトスからの言葉』より)

私は心の中に何か分裂と不安といらだちがある時、今動いてはいけないと思い、祈って神に聞くようにしています。神から来たものは平静と信頼だからです。

②【水を汲むような作業を繰り返しなさい】

宴会場にはユダヤ人が清めに用いる石の水甕が六つありました。一つ水甕は2~3メトレテス入りでした。これは80ℓ~120ℓです。イエス様は召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい。」というと、彼らは甕の縁まで水を満たしました。一つの甕に2リットル入りのペットボトルだと、40本~60本です。それが6つですから240本~360本になります。水道からではなく井戸から汲むのですから何度も往復をしなければなりません。大変な重労働です。なぜ僕たちはこんな馬鹿なことが出来たのでしょうか。それは僕であったからです。僕は解釈しません。考えません。答えを出そうとしません。目の前の「命じられたこと」だけをしようとします。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5節)というマリアの言葉に従ったのです。もともと宗教というのは単純に従うことです。

●この間NHKBSプレミアムで「まいにち養老先生」という番組をやっていました。プラハにある中世の教会と日本の寺院は非常によく似ているというのです。中が暗い、伽藍がある、それと香の薫りとローソクだというのです。現実の世の中は誰でも知っています。もう一つそれからちょっと離れた世界があります。その世界に簡単に入れるような装置を作る、そうすると安心してその中に浸っている。私たちの中にあるものを上手に引き出し、安定させる装置になっている。あまり意味を考えちゃあいけない、理屈にしない方がいい、だから雰囲気なんです。

私は自分の32年間の牧会生活を顧みて、まことに水を汲むような生活だったと思います。汲んではその水は次々と漏れていき、この水甕である教会はいつになっても水が溜まりません。その労働は報われず、いつになれば栄光が現れるのかと思います。でも時が来るまで、汲むしかないのです。薬師寺の高田好胤さんの言葉ではないですが「眼に見えないところに無駄だと思う努力をする、最小の効果をあげるためにも最大の努力を惜しまないのが宗教」なのです。
朝の祈りでは何度も同じ祈りを繰り返し、詩編を朗読します。私たちは声に出して祈っていても「うわの空」で心が込もっていないことがあります。何度も繰り返す中で徐々に集中してゆきます。石地、茨、硬い土地のような心の状態でどうして、天の種(神の言葉)が入ることが出来るでしょう。心を耕し良い土地にするには時間がかかるのです。鳥は何度も羽ばたくことによって風に乗り、自由に空を飛ぶことが出来ます。私たちも同じです。単純な信仰生活、祈祷を繰り返すことによって聖霊の風に乗ることが出来るのです。

③【人間の知らない所で、神様はすばらしい業をする】

イエス様は「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(2:8)と言うと、召し使いたちは水を世話役の所に運んで行きました。世話役はぶどう酒に変った水の味見をしました。聖書には、水がいつ、どのようにしてぶどう酒に変わったのかは書かれていません。書かれていないということは、それは考えなくて良いということです。大切なことは人間の知らない所で、神様はすばらしい業をして下さるということなのです。この水が最上のぶどう酒に変わることは何を教えているのでしょう。聖書で七は完全数であり、六は不完全数を表しています。

  1. ある教父たちは、六つの水がめとは天地創造の六日間を象徴し、イエス様が水を最上のぶどう酒に変えたことは、第七の日に神がそれを完成されたことを意味していると解釈しました。天地の創造は六日間で行われ「天地万物は完成された」(創世記2:1)と書かれています。ところが創世記は「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、…安息なさった」(創世記2:2)と第七の日に完成したと再び言われています。ここには二つの「完成」が出てくるのです。
  2. またある教父は人間は第六日目に創造され、人は「神の像と似姿」で創造されました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)と書かれています。人間は神のイメージは持っているのですが、まだ神の似姿にはなっていませんでした。唯一神の似姿の完全な表れであるイエス様が現れたときに、初めて人間はイエス様によって神の似姿が完成されるのです。
  3. またある教父たちは次のように考えます。六つの水甕はユダヤ人が食事の前に手足を洗う宗教行事のために用いたものです。旧約の宗教行事は「不完全」であって罪を取り除くことはできませんが、最上のぶどう酒は聖餐式を象徴しており、新約の聖礼典によって罪の汚れを取り除くことが出来ることを教えているのです。

④【良いものは取って置かれる】

世話役は花婿を呼んで言いました。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(10節)酔っぱらうと何を食べても飲んでも一緒です。感覚が麻痺しているからです。だから最初に良いぶどう酒を出し、酔っぱらってから劣ったものを出すのが普通なのです。それなのに花婿さん、あなたは良いものを後に取って置かれた、あなたは偉いですねと世話役は言ったわけです。これは世話役の口を借りた預言です。花婿はキリストを象徴しているように感じます。
私はこの「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」という文章を読んだ時、「安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブライ4:9)という言葉を思い出しました。私たちはユダヤ人の第七日目の安息日(土曜日)ではなく、キリストが復活した第八日目の安息日(日曜日)に礼拝します。第七日目の安息日(土曜日)は天地創造を祝う安息日です。でもこの安息日は不完全でした。人間がこの世界に死と崩壊を持ち込んだからです。死がある限り人間に本当の安息などありません。私たちは本当の安息に与れないのです。そこで神は新しい安息日を用意されていたのです。それがキリスト教徒が祝っている第八日目の安息日です。これがまことの安息が取っておかれたという意味です。

●私は以前、キリストに触れられ、キリストの声を聞いたときに、お腹の中からものすごい大きな熱い喜びがこみ上げてきました。それが私の神に対する恨みをぜんぶ飲み込み消滅させてしまいました。その大きな喜びは私の中に入り切れなくて外に溢れ出て、あまりにもうれしくてまるで天国にいるような気分になりました。これが毎日続くのかと思ったらとてもではないけれども体が耐えられないなと思いました。聖霊が入ったというのはこういうことかというような体験でした。神の恵みも、神の命も、聖霊も大きすぎて、ちっぽけな私たちの肉体の中には入りません。満ち満ちている神(充満・プレローマ)の霊は、それが入るのに相応しい神的な体が用意されなければ入ることはできないでしょう。それこそ天上の体、復活体です。パウロは「この世では卑しい体でも、輝かしいものに復活し、この世では弱い体でも、強い体に復活する」(Ⅰコリント15:43~)と言っていますがその通りです。良いものは向こうに用意されています。

善い物を人間は造り出すことは出来ません。それは神の業であって、神が後で用意しておかれるのです。自分が人生でやったことがすべて無駄に思えるような時があるかもしれません。何も残らない、または途中で失敗に終わるかもしれません。でもそれでいいんです。この世でのことは何もかも不完全でよいのです。一生懸命すればそれでよいのです。そう思えば楽でしょう。何かをりっぱにやり残そうなどと考えれば守りに入り、守りに入れば腐ります。前に向かって前進するのみです。箴言に「神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。」(4:18)とあるように、歩むにしたがって良くなり、終わりは最も良いのです。完全な復活の体、永遠の命は来世に取ってあります。それを喜びましょう。