2021年1月24日(日)主日朝礼拝説教

『天の国は近づいた』

イザヤ9章1~6節、マタイ福音書4章12~22節

井上 隆晶 牧師

①【天の国は近づいた】

今日の個所は、イエス様が神の子として伝道を始められた時のことを伝えています。ところでイエス様の語られたメッセージは、17節にあるように「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)というものであり、それは洗礼者ヨハネが洗礼運動を始めるにあたって語ったメッセージ「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と全く同じものであって、二人共に天の国へ招いているのが分かります。伝道というのは「天の国へ招待すること」なのです。
この「天の国は近づいた」とはどういう意味でしょうか。これを聞いた人々は、ローマの支配が終わって、地上に目に見える形での昔のようなイスラエル王国が出来上がると思ったようです。皆さんだったらどのようなイメージを持ちますか?戦争も争いも病気もない平和な世界が地上に出来るという意味でしょうか。それなら2021年の今もまだ出来ていませんから「神の国はまだ来ていない」ということになってしまうでしょう。
この「国」という言葉はギリシャ語では「バシレイア」といいますが、動詞になると「支配する」という意味になり、「バシレイオス」となると「王」という意味になります。イエス様の罪状書きにも「ユダヤの王(バシレイオス)」と書かれていました。つまりキリストが神の国の王であり、キリストの支配が近づいたということをここでは言おうとしているのです。

●アメリカの大統領がトランプさんからバイデンさんに変わりました。バイデンさんは早速、トランプさんが決めた政策をひっくり返しました。地球温暖化対策のためのパリ協定に署名し、メキシコとの国境の壁建設の為の根拠であった非常事態宣言を解除し、世界保健機関(WHO)脱退の手続きの取り下げを命じ、次々と政策を変えました。第二次世界大戦の時、ユダヤ人はナチスドイツに迫害され、大量虐殺が行われ、難民となり、多くのユダヤ人は隠れるように生活していました。ヒトラーが自殺し、ドイツが戦争に負けると、町は連合軍に支配され、隠れていたユダヤ人たちは自由になりました。支配者が変わるということは、法律が変わるということなのです。法律が変われば、生き方が変わるのです。

これがヒントです。つまりイエス様が来られる前までは、「律法の世界」でした。「律法の世界」とは何かというと、ルール(規則)をきちんと守った人でないと神に認められない、受け入れられない、救われないと思われていた(本当は違いますが)世界だったということです。それが「福音の世界」に変わったということです。キリストが新しい支配者となり、新しいルールが始まり、新しい世界が始まったということなのです。それが「神の国は近づいた」という意味です。実際イエス様による支配がはじまったことを教えるために、イエス様は悪霊を追い出し、病をいやし、荒波を沈め、死人をよみがえらせました。悪霊も死も病気も自然界も、この新しい王支配者キリストに従うことを証明して見せたのです。ではこの天の国、キリストの王国は見えるのでしょうか。これは地上に昔のような王国ができるのとはだいぶ違います。地上の王国は所詮、地上の国です。人が作っている以上神の国ではありません。しかしキリストは天上の国を地上にもたらしたのです。その王国は目には見えませんが、霊的な世界に存在し、その国は永遠に終わることはありません。私たちはこの世の国にいながら、天の国にも属する者となったのです。

イエス様は故郷のナザレを離れ、ガリラヤ地方に退き、ガリラヤ湖の畔にあるカファルナウムという町に住まいを移されました。首都のエルサレムは南にありますが、このガリラヤ地方は、遠く離れた北の方にあります。ここは貧しい人たち、移民、外国人が多く住む場所で、教育を受けていない人が多く、治安のよくない所です。聖書は「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」(マタイ4:15~16)と書いています。なぜイエス様がこのような「暗闇」とか「死の陰の地」と言われる場所で伝道を始められたのでしょう。それは私たちの心の中を象徴しているのです。劣等感、死の恐れ、恥と罪の闇、愛と憐れみを求める心です。そこで主は叫びます。「天の国は近づいた!」

●中米グアテマラとホンジュラスの国境付近で、今アメリカ入国を目指す移民数千人とグアテマラ警察の間で衝突が起きています。すでに数千人がグアテマラの領内に入っています。バイデン大統領が誕生すれば、入国しやすくなるとの期待から移民の移動が始まったからです。あるホンジュラスの青年は「バイデン大統領は私たち皆を助けてくれる」といっていました。

これと同じです。イエス様は自分たちを苦しみから助けてくれると、多くの貧しい人たち、罪人、遊女、徴税人、病人、障がい者たちがイエス様に期待して集まってきたのです。彼らにとってイエス様は希望の光だったのです。イエス様が彼らを受け入れてくれたからです。

でも、古い世界の方が良いと思っていた人たちもいました。国会議事堂を襲撃したトランプ支持者たちのようなものです。古い律法の世界では聖書学者やファリサイ派の人たちや長老たちは、その世界でよい地位を得、支配者となっていました。そこへ新しい支配者イエス様がやってきて、自分たちが認めなかった貧しく無学な罪人たちへ「あなたたちも神に愛され、神の王国に入れる」と言ったものですから、自分たちの判断や正義がひっくり返ってしまったわけです。本当の主人が帰ってきたら、偽りの主人はその地位を奪われます。本物が現れたら、偽物はその座を明け渡さなくてはなりません。今まで自分が本物だといっていた偽善がバレてしまうのです。彼らは自分たちが偽物だと薄々気づきながらも、その偽りの中に隠れていたかったのです。キリストの愛の支配を拒み、偽りが自分を支配することを喜びとしていたのです。

●先日NHKドキュメント「映像の20世紀」で、なぜみんながナチスの狂気に走っていったのかを描いていました。ナチス党が政権を取ってから、入党する人が増え、終戦時には十人に一人がナチ党員だったといいます。ナチ党員になれば昨日まで無名で、無力だった自分が何か大きくなったように感じ、偉くなったように感じたそうです。そうやって新聞屋や牛乳屋といった普通の人が隣人のユダヤ人を密告していきました。狂気に走ったのは普通の人だったのです。人の中にある偽り、欲望がユダヤ人を虐殺していったのです。

●YWCAの聖書を学ぶ会で「洗礼」について話す予定でしたが、コロナの影響で集会がなくなり話せなくなりました。洗礼を受けるということは、主人が変わるということです。結婚でも相手が死んだら夫婦関係は解消します。同じように私たちは洗礼によって古い自分は水の中で死に、キリストと結ばれ一体になり夫婦となりました。キリストが新しい夫(主人)になったのです。主人が変わることがいかに有難いことか、統一協会(カルト宗教)に行っていた人は知っています。カルトでは献金と伝道という厳しいノルマを課せられました。失敗したら地獄へ行くと言われ、そのノルマをクリアしなければ救われないと日々恐れの中にいたのです。しかしその人が文鮮明からキリストに主人を変えた途端にその条件から解放されたのです。
または私たちはキリストに買い取られた奴隷のような者です。私を支配するのはキリストです。罪と死がたとえ私の中に残っていようとも、キリストの赦しと命の支配の方が大きいのです。キリストの奴隷に失敗があったとしても、どうして他人である悪魔が口を出すことができるでしょう。律法も悪魔ももう私の主人ではないのです。主は言われるでしょう。「これは私のもの、私が好きなようにしてはいけないか、私の寛大さをねたむのか。」

だから「悔い改めよ」という言葉も「悪いことをやめて正しく清い人になれ」という意味ではありません。原語は「方向転換」という意味です。自分の正しさに頼ることから、キリストの愛に頼る生き方に変われ、主人を人やお金や物から、キリストに変えろという意味です。

②【人間をとる漁師にしよう】

イエス様はガリラヤ湖で四人の漁師を弟子として呼ばれました。ペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネです。彼らがセットで呼ばれているのは、人間は個人ではなく、隣人と共に救われるということを教えています。私の救いは、分かち難く隣人の救いとつながっているのです。ちょうど体の一部(頭、喉、お腹でも)が病めば体全体が苦しみますが、一部が癒されていけば全体も楽になるのです。救いは個人のものだけでなく、教会全体、社会全体、宇宙全体(被造物全体)のものであるということを忘れてはいけません。ひとりの信仰によって全体が救われる、誰かの犠牲によって平和を前進し、悪が止まるのです。私たちは一人で救われるのではなく、一つの人類家族の一員として救われます。クリスチャンは「私」ではなく「私たちをお救い下さい」と祈るのです。私たちは隣人の罪を分かち合わなければなりません。失われた自分と失われた隣人を回復するのです。
また、彼らは神の国での奉仕者(働き人)として召し出されたのだと思います。「人間をとる漁師」というのはそれを意味しています。私たちは地上の仕事と、天上の仕事の両方の仕事があります。天上の仕事(公の礼拝、祈り)は、地上の仕事よりも優先させなければなりません。彼らが地上の仕事の途中であっても、網や舟や父親を後に残してすぐに従ったのも、神の仕事を優先させるためです。神の国の為に働いてくれる人を主は探し、求めているということです。

聖書は「すでにキリストの王国は始まり、キリストの支配は始まっています。あなたはその支配を喜びますが、それとも古い世界の中で生きたいですか?」と問うているのです。キリストの愛と命の支配が始まったことを信じ、キリストの支配下に自分を置いて喜んで生きるのが信仰生活、礼拝生活なのです。