2021年1月17日(日)主日朝礼拝説教

『我々にふさわしいことです』

ローマ6章1~5節、マタイ福音書3章11~17節

井上 隆晶 牧師

①【洗礼とは新しく創造されること=神によって新しく生まれること】

荒野に現れたヨハネは「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えました。そこで彼のことを「洗礼者ヨハネ」といいます。民衆はもしかしたら彼がメシアではないかと思い、全国からぞくぞくと荒野にいるヨハネのところに集まってきて罪を告白し洗礼を受けました。その群衆に向かってヨハネは言います。「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来られる方は、私よりも優れている。私はその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11)ヨハネは自分の「水の洗礼」とは違う、新しい「聖霊と火の洗礼」が自分の後から来るメシアによって始まると言いました。
この「聖霊と火の洗礼」とは何でしょう。マルコ福音書では「その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」(マルコ1:8)といって火は書いていません。「火」は罪を焼き、心を照らす聖霊の働きの事を言ったのでしょう。イエス様は天にお帰りになる前「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊により洗礼を授けられるからである。」(使徒1:5)と言われ、聖霊を受けることを「聖霊の洗礼」といわれました。初代教会では洗礼式の後にすぐ油を塗る式をしました。それが聖霊を受けたことのしるしなのです。びっくりするような体験がなくても水で洗礼を受けた人は、同時に聖霊によって洗礼を受けているのです。

福音書の他の個所でイエス様はニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。ニコデモは高齢な自分が新しく生まれることなど出来るのですか?と聞き返すと、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同3:5)と言われました。ここでイエス様は洗礼というのは新しく生まれること(新生)だと言い換えています。

●先日アウグスティヌスの説教を読んでいたらこんな面白いことが書いてありました。「人間は親を選べず、生まれる時も決められず、自分の意志で生まれることもできない。しかしキリストは母親を選び、生まれる時を決め、自らの意志でこの世に生まれてきた。」その通りだと思いました。彼の誕生は人間を超えています。

しかし私たち人間は自分の力で生まれてきたのではありません。親が頑張って生んでくれました。新生も同じです。新生(洗礼)とは、自分で頑張って新しく生まれることではなく、神によって生んでもらうことなのです(ヨハネ1:13)。 刑務所では良く再犯防止のための「更生プログラム」というのがあります。これは自分の努力で変わるプログラムです。更生は悪人が心を入れ替えて多少の善人に変わる人間の業ですが、「新生」は神による創造の業です。パウロもはっきりと「大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:15)と言っています。言い換えると「更生」はこの世の中で生まれ変わることですが、「新生」はこの世に死んで神の国に生まれることなのです。
だから不思議としか言いようがないのですが、新しい人間が古い人間の中に生まれたとしかいいようのないものなのです。たとえどんなに外側の人が変わらなく見えても内側には神によって創造された新しい人間(キリストの似姿)がいるのです。でも魔法ではありません。洗礼を受けたら一生罪を犯さなくなる訳ではありません。魔法ではなく神秘(ミステリオン・秘儀・奥儀)です。罪が赦された感動はもってせいぜい一週間でしょうか。洗礼を受けても教会に来なくなり、信仰を失う人がだいたい三分の一はいます。それでもその人が洗礼を受けたという恵みは一生消えることがありません。神の業は永遠だからです。選びが取り消されないように、洗礼も取り消されません。しかし恵みが開花するためには、人間の自由意志が必要です。キリストを必要とし、彼につながって生きるようとする決意が必要です。コンセントと同じです。キリストにつながれば神の似姿は開花し、育ってゆくでしょう。 幼児でも洗礼は必要です。罪は遺伝しませんから生まれたばかりの赤ん坊は清いですが、この世は呪いの力が働いていますからすぐに必ず罪を犯すようになります。誰も逃れられません。そのままでは赤ん坊でも神の国を見ることはできないのです。
先日、金曜日にヨハネの福音書を読みました。そこに「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:3)とありました。言(ロゴス)とはキリストのことです。人間はキリストによって完成されるようにプログラムされていました。しかし人間はそのキリスト(命の木)から離れたので神の似姿は失われ、体は死と悪魔に支配され、未完成の内に死んでゆきます。キリストによらなければ誰も完成されないのです。赤ん坊といえども同じなのです。教育では人は救われないのです。神によって新しく創造されること、キリストの神秘体につながること、それ以外に救いはないのです。私たちは洗礼を受け、教会から離れた人たちのため祈らなければなりません。洗礼は終わりではなく、キリストの似姿へと成長することの始めです。本来のあるべき姿への回復の第一歩です。でも私たちはそれを自分の力でするのではなく、キリストと一体になって行うのです。

②【キリストによる新しい洗礼が始まった】

聖書では水は裁きの道具として用いられています。ノアの洪水によって悪人を滅ぼし、紅海によってエジプト軍を滅ぼしました。ですから水は死を象徴しています。しかしイエス様が洗礼を受けた時、天が開き、聖霊が鳩のように降り、天から父なる神様の声「これは私の愛する子、私の心に適う者」(3:17)という言葉がありました。聖霊がイエス様の上に降ったのは、イエス様が自分と同じ神であることを教えるためであり、鳩の姿で現れたのはノアの洪水を思い出させるためです。その昔ノアの箱舟の時、鳩はノアのもとにオリーブの葉を運び、洪水の終わりを告げました。今、聖霊はイエス様の上に降り、イエス様こそ世界の難破を救う者、この方こそ真の命であることを証したのです。こうして父なる神様と聖霊様はこの日、共に現れてイエス様を証しされました。(これが公現祭の意味)
イエス様はあえて水によるヨハネの洗礼を受けることによって、ご自身の中で古い洗礼を終わらせ、聖霊を降す新しい洗礼を用意されたのです。これは過越祭もそうです。主は古いユダヤ教の過越祭を受けることにより、それをご自分の死に勝つ命を与える新しい過越祭に変えられました。それが聖餐式です。キリストに触れた古い洗礼は、新しい洗礼へと変容したのです。水によって古い人を葬り去り、同時に聖霊によって新しい人を創造するのです。

洗礼は実にイエス様の人生のフィナーレ(十字架と復活)の先取りです。実際イエス様は十字架の苦しみのことを洗礼といわれました。「私は受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」(ルカ12:50)。洗礼はイエス様にとっては死の始まりであり、それは十字架の上で完成します。しかし同時に復活の始まりでもあります。水からすぐに上がられたのは、三日目に復活することのしるしでした。洗礼というのはイエス様の死と復活を象徴しているのです。

●エルサレムのキュリロスは348年に聖墳墓教会で、洗礼志願者にこう説教しました。「三回水に浸かり、また水から上がりましたが、それでキリストの三日間の埋葬を暗に象徴していたのです。…あの救いの水はあなたがたにとって墓であり母の胎でもあったのです。…何と奇妙で不思議なことがありましょう。私たちは本当に死んだのでもなく、本当に墓に入ったのでもなく、本当に十字架に架けられて復活したのでもありません。しかし模倣がかたどりにすぎないとしても、救いは真実なのです。」

洗礼の秘跡の中で、キリストに起こった死と復活が私たち人間に転嫁されます。パウロはこう伝えています。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが…死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。…私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:4、8)キリストは本当に死にましたが、私たちは死にあやかるのです。でも本当に死んだことになり裁きは終わるのです。キリストは本当に復活したのですが、私たちも復活にあやかるのです。「人間が本当に死ぬことなく、この世から復活するために、キリストは洗礼の秘跡(サクラメント)を定められました。

③【神はキリストにあって世の終わりまで人類とすべてを連帯する】

イエス様は荒野で罪人たちの列に並んで自分の順番を待ち、罪人と同じようにヨハネの手から洗礼を受けようとしました。ヨハネは自分の前に現れたイエス様を見て驚き、洗礼を授けるのを辞退しようとします。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)。そんなヨハネに対してイエス様はこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)「正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしい」という言葉をもって、この方は罪人の側に自分を置き、罪人と同じ者となられたことを知ることができます。私はここを読む度に深い感動を覚えます。神の名とは「インマヌエル」(神はわたしたちと共におられる)ですが、罪人と共にいて下さるということです。
神は人間の苦しみに共感(同情)するだけでなく、その人間の苦しみを体をもって共に負い、共に苦しむ者となられたということです。神が人間とすべてを分かち合い、徹底的に人間と「連帯しよう」と思われたということです。神は人となって人間性を連帯しただけでなく、人間特有の罪や病や死をも連帯されます。キリストは人間の病を負い、罪を負い、死を負い、分かち合います。良いものだったら誰でも分かち合いをしてくれます。しかし嫌なものを誰が分かち合ってくれるというのでしょう。人の罪を負いたい者が誰かいるでしょうか。恥や汚れや嘲笑を一緒に受けてくれる者がどこにいるでしょうか。病気を引き受けてくれる者が一体どこにいるでしょうか。自分の身代わりに死んでくれる者がはたしているでしょうか。このような神を見たことがありません。誰も思ってもみなかった神のイメージがここに現れています。神は恐ろしい方ではなく、底知れぬ愛、あなたを見捨てない愛であるということです。

●「1987年ヨハネ・パウロ二世は9月17日サンフランシスコのドローレス・ミッション教会でエイズ患者に接見していました。教皇はエイズ患者に「神はあなたたちを差別することなく、際限なく、無条件に愛しておられる」といって一人一人に声をかけ、握手をしていました。その時、突然、青い目の小ちゃなブランダン・オー・ロークくんが抱かれていた父親の腕を振り払って、教皇の懐に飛び込んで来たのです。輸血でエイズに感染してしまった5歳の子にも、苦悩の毎日が始まりました。教皇は何のためらいもなく、その子のふくれ上がった顔の傷に接吻なさった時、アメリカの良心はそこに「教皇の心」以上に、「イエスの心」を読み取ったことでしょう。」

同じようになってくれるということは本当に有り難いことなのです。モンテスキューは「真に偉大なものは人間の上にあるのではない、人間と共にある」といいました。キリストの偉大さは、遥か天にいまして畏れ多いことではなく、私たちのような罪深い者と共にいてくださることです。「あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」とヨハネはいいましたが、その通りなのです。人が自分の力では天国に昇れないので、キリストがあなたの所まで降られたのです。あなたと一体になり、あなたを天に上げるためなのです。
キリストが立てた新しい洗礼によって人間の死と再生が始まりました。皆さんは本当に神の子であり、神様はあなたの親になりました。神様が親なら、子は親と同じ命をもっているはずです。だから私たちは神の命をもっているのであり、死なないのです。あらゆる神の恵みがこの洗礼によって与えられたのです。