2021年1月10日(日)主日朝礼拝説教

『安らかに去れる』

詩編130篇1~8節、ルカ2章22~38節

井上  隆晶  牧師

①【待ち望む人たち】

イエス様は生まれて40日後に、初めて神殿に連れて行かれました。出産後のマリアに清めの儀式をするためと、幼子イエス様を神様にお献げするためです。これを教会の行事で「主の奉献祭」といいます。
さてエルサレムにシメオンという人がいました。シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(25~26節)とあります。シメオンは聖霊からあなたは必ず救い主に会える、それまでは死なないという約束をもらっていました。ということは生きているうちに必ずメシアに会えるという約束です。そしてその言葉を信じてずっと人生を送ってきました。今日の物語には老人たちが登場します。アンナなどは84歳でした。当時では相当な長生きです。なぜキリストに出会えたのは若い人ではなく、このような高齢者なのでしょう。皆さんは不思議に思われませんでしょうか。歳をとるということは人間の可能性というものがどんどん少なくなっていくということです。出来ることが減ってくる、誇るものがなくなってくる、飾りが剥がされてゆくということです。若い時は「神様を頼ります」と口では言いますが、まだまだ自分の力に頼って生きています。歳をとるということは、もう自分というものに期待できなくなり、期待できるのは神の約束のみ、神の誠実さのみになるということです。だから神様に出会えるのです。彼らは自分を見て絶望したからこそ、神に希望を抱いた人たちです。

●九時課の祈祷文の中にこんな祈りが出てきます。
「主よ、われら罪あるあなたに相応しくない僕を清めてください。われらは罪を犯し、不法を行い、目を上げて天の高みを仰ぎ見るには堪えられないからです。あなたの正しい道から離れ、己の欲望のままに日々を送ったからです。」

この人は自分は信者として相応しくないと思っています。だからこそ目を上げて神の御顔を仰ぎ見ることができないと言っています。自分というものに絶望しています。自分が変われるとすればもう神の力しかありません。神の約束に頼るしかないのです。このような心境というのは、そうたびたび感じるものではありません。大きな失敗を犯した時くらいでしょう。これを読んで思い出すのは、神殿に徴税人とファリサイ人が祈るために上った話です。徴税人は「自分は相応しくない」と思い、遠くに立って顔を上げることもできずに「神様私を憐れんでください」と祈りました。一方ファリサイ人は「自分は相応しい」と思い、人を裁き、顔を上げて祈りました。この時、神殿の中には大勢の人が礼拝に来ていたはずです。彼らは頭では神を理解し、生活習慣として信仰生活をしていました。しかし本当の意味で、神に期待してはいなかったのではないのでしょうか。やはり人間の立派さ、自分の力に期待していたように思うのです。

●先日TVで「聖衣」という映画を見ました。イエス様を十字架につけた百人隊長が罪の呵責から病気になり、呪いを解くためにイエス様の聖衣を探します。やがて衣を見つけ、苦しみから解放されます。彼は主が自分を赦されたことを知ります。やがてキリスト教徒の中に入って行って次第に信仰に目覚めます。でも自分が彼らの主を殺したことをなかなか告白できません。そこへペトロが来て、自分も主を見捨てたことを告白します。彼らの共通点は自分は主の僕として相応しくないと思っている点です。だからこそ主の赦しをとても有難く感じているのです。

自分は顔を上げられないほど、本当に信者として相応しくないと思える人だけが、キリストに出会えるのではないのでしょうか。

②【聖霊は私たちをキリストに導いてくれる】

シメオンやアンナはイエス様に会ったことがありません。神殿の中には大勢の人がいたのに、どうしてイエス様のことが救い主だと分かったのでしょう。それは聖霊が教えてくれたからです。25~27節まで「聖霊」という言葉が三回も出てきます。鉄と磁石は同じ性質なので、お互いに引き合います。それと同じように、聖霊もイエス様も同じ神、分かれざる一体の神なので、互いに引き合い、互いを教え合い、自分と同じものの上にとどまるのです。人間は神を知ることはできません。限界ある者がどうして無限な者を知ることできるでしょう。神だけが神を知っています。私たちは同じものによって同じものを知るのです。だから聖霊を持つ人は、御子イエス様が分かるようになります。

●ヨハネの手紙には、偽預言者が大勢世に出ていると書かれています。彼らはイエス様の受肉を否定しました。これは2世紀に現れたグノーシスという異端のことです。彼らは肉を汚れたものと見たため、神は汚れた人間になどならないといいました。神が人となるのを受肉といいますが、彼らはそれを否定したのです。神の霊を受けているなら受肉を告白するはずだ、そうでないなら彼らは「反キリストの霊」を受けているのだとヨハネは言っています。(1ヨハネ4章)実際、統一協会はキリストは神ではなく、最高の人間であるといいます。モルモン教徒はキリストは天使であるといいます。その人が聖霊を受けているかどうかは、キリストをどのように告白するかでわかるのです。

③【安らかに去らせてくださいます】

こうして彼が聖霊に導かれて神殿の境内に入ってゆくと、そこへ両親がいけにえを献げようとして、イエス様を連れてきました。シメオンはすぐに幼子をメシアだと分かり、イエス様を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29~32)これはヌンク・ディミティスといわれ、晩課で歌われるようになりました。晩課とは寝る前の祈り、死の準備の祈りです。彼は「私はもうこれで安心してこの世を去る(死ねる)ことができます」といったのです。彼の平安がいかに大きかったかが分かります。

シメオンやアンナといった老人たちは旧約を象徴しています。長かった旧約時代は歳をとり終わろうとしています。そこへ新約の象徴である若いイエス様が現れました。旧約と新約は出会い、旧約は自分の使命を終えて新約にバトンタッチしていきます。こうして旧約は新約によって完成します。また老人シメオンは死すべき人間の象徴です。一方幼子イエス様は神であり命の象徴です。老人シメオンは、幼子イエス様をその手に抱きました。今、死は永遠の命を抱き、死は再び命に接ぎ木されて生き返ったのです。「メシアに会うまでは決して死なない」という言葉は、メシアに会ったら死ぬというよりも、消えそうになっていた命が永遠の命と出会い、消えることなく次の世界に受け継がれていったイメージがします。聖霊はすべての人に働き、すべての人を永遠の命であるキリストへとつなごうと働きます。まさに神と人の出会い、永遠と時間の出会い、新しい者と古い者の出会い、命と死の出会いです。
シメオンがイエス様を抱いた時、これで「安らかに去れる」といいました。罪を持つ人間にとって死は恐れでしかありません。しかしシメオンには死の恐れ、裁きの恐れはありませんでした。だからこそ「安らかに死ねる」と言ったのでしょう。それはこの幼子イエス様の中に完全な愛を見たからでしょう。百人隊長は十字架の横でイエス様が息を引き取るのを見て「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)といって神を賛美したと書かれています。彼は奇跡を見て信仰告白したのではありません。強いキリストを見て信仰告白したのでもありません。弱さの極みである十字架のイエス様を見て信仰告白をしたのです。なぜでしょう。イエス様は徹底的に人間に侮辱され、傷つけられ、釘打たれ、すべてを奪われ、わき腹を槍で刺されました。でもこの方の口から出てきたのは赦しでした。わき腹から出たのは命でした。百人隊長はキリストの中に神的なものを、完全な愛を見たのです。完全な愛がある時、恐れは消えてしまいます。これはこの世には無いものです。神の国にしかないものです。これに近いものを私は依存症の集会で見たことがあります。誰も裁かないからです。でも限界があると思います。しかしこの完全な愛と赦しは私たちの誰もが求めているものです。シメオンも同じだと思います。私たちは完全な愛を見た時だけ慰められます。

●先週の礼拝で聖餐をいただいた後、心がとても穏やかになりました。イエス様は何も語らず、弱く、小さい赤ん坊の姿で来られました。聖なるパンと聖なる杯もわずかなパンのかけら、わずかなぶどう酒でした。まるで幼子イエス様のようだと思いました。でも最も確かで、最も強くて、本物の命をいただいたと感じたのです。何を確かと思うかではないのでしょうか。私はイエス様の命こそ最も確かな命だと思います。イエス様の愛こそ最も確かな愛だと信じます。イエス様がご自分の肉と血を「まことの食べ物」「まことの飲み物」といわれたのは嘘ではありません。河野進という牧師います。彼はマザー・テレサの仕事を見て「マザーは、行き倒れの一人ひとりを本当にキリストとして介抱していらっしゃる。あれはカトリックだからこそできることですよ」といいました。カトリックは、とうていキリストに思えないものを、キリストと信じる信仰をミサの中で養っているというのです。カトリックでは聖パン(ウエハース)をキリストだと信じているからです。

シメオンは「この目で救いを見た」といいました。シメオンはこの小さな幼子の中に「本物の命、最も確かな愛」を見る目をもっていました。それは聖霊によって与えられたものです。6世紀のダマスコのヨハネは「聖霊を宿す人は5感ではなく10感を持つ」と言いましたが、聖霊は私たちの中に神を見る目、神の声を聴く耳、神のことを語る舌、キリストの香りを嗅ぐ鼻、神の業を行う手足を準備されるからです。聖餐のパンとぶどう酒の中に本物の命を見る目を持ちましょう。十字架のイエス様の中に本物の愛を見る目を持ちましょう。