2021年1月3日(日)主日朝礼拝説教

『二人の王』

詩編65篇9~14節、マタイ福音書2章13~23節

井上  隆晶  牧師

①【新しい出エジプトの始まり】

新年明けましておめでとうございます。今年も皆様の上に主の平和がありますように祈ります。ところで私たちは年末に「良いお年を」と挨拶します。これはどういう意味かご存知ですか?江戸時代には「つけ」が主流で、支払いは年末に行われました。そこで年内に支払いを済ませてすっきりとした気持ちで新年を迎えましょうという挨拶が「良いお年を!」だったそうです。また年内にやるべきことをしっかり済ませてとか、「良い歳を重ねてね」という意味もあるそうです。つまり負債や罪をきれいにすることが「良い年を迎える」ことになるわけです。謝るべきものは謝る、返すものを返す、帰る所に帰る、心をきれいにする、初心に帰る、心を真っ直ぐにする、要らない物を整理する、これが本当の「良いお年を」でしょう。
昨年末の朝の祈りで、祈祷名簿を用いて一人一人の名前を読み上げ祈りました。「今年一年いろんなことがありました。与えられた多くの恵みに感謝します。またこの一年間私たちが言葉と行いと思いをもって犯したすべての罪をお許しください。そして赦されるなら私たちを憐れみ、来年も新しい一年と命をお与えください。…」と祈りました。一人一人の名前を読み上げると、人の数だけ罪があるということがリアルに感じました。にもかかわらず神様は私たちは今年も生かし、命をくださいました。昔の修道者が「命が短いのはそれ以上罪を犯させないため、命が長いのは悔い改めるため」といいましたが、今年生かされた私たちは、悔い改めの時間をいただいたと思って、時間を無駄に過ごすことなく、与えられた恵みに感謝し、より神に近づく年になりたいと思います。

さてイエス様が生まれても、その後すぐにイエス様を殺そうとする者が現れてきます。ヘロデ王です。このヘロデという人は大変疑い深い人で自分の王位を脅かそうとする人を次々と殺したそうです。天使は夢でヨセフに現れて言います。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイ2:13)そこでヨセフは起き、夜のうちに幼子イエス様と母マリアを連れてエジプトへ避難しました。このエジプトへの逃避行は預言されていたことの成就だとマタイは解釈しました。「『私は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(15節)この預言というのは旧約聖書のホセア書11:1「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」のことです。ユダヤ教の教師たちの間では『ミドラシュ』という聖書解釈集があって、その中に「最後のメシアの時も、最初の救済者モーセの時のようになるであろう」という言葉があり、終末に現れるメシアはモーセと似た過程をたどると信じられていました。ヘロデがベツレヘムにいた二歳以下の男子を皆殺しにしたことも、エジプトのファラオが「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうりこめ」(出エジプト1:22)と命じたことに似ていますし、エジプトに避難していたヨセフたちに天使が現れて「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(マタイ2:20)といった言葉は、ミディアンに避難し40年羊飼いをしていたモーセに主が「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」(出エジプト4:19)と似ています。これらを見てもイエス様の生涯とモーセの生涯とが重ねられて語られていることは明らかです。
つまりこの物語はイエス様の「新しい出エジプト」を意味していることになります。イエス様は信仰の民を導く新しい指導者であり、イエス様と共に旅をするヨセフとマリアは新しいイスラエル(信仰の民)として描かれています。このようにイスラエルの歴史を繰り返すことによって、古いイスラエルの不従順を回復しているのです。信仰生活というのは、イエス様と一緒に天国という約束の地に向かって「この世を出る旅」をしているのだと思いましょう。

②【イエス様(信仰)を守り育てよう】

クリスマスに洗礼を受ける人は多いと思います。洗礼を受けるとイエス様がその人の中に生まれます。しかしイエス様はすぐに命が狙われました。せっかくクリスマスに信仰が芽生えても、その信仰を殺そうとする悪魔的な力が働いているということを教えようとしているのです。ヘロデは皆さんの中に住んでいます。教会に行くのを止めさせようとし、聖書を読むことも祈ることも止めさせようとします。そのままなら皆さんの信仰は死んでしまいます。
しかしこの物語は、イエス様を必死に守ろうとした人がいた、ということも伝えています。イエス様の名付け親ヨセフとその母マリアです。彼らはそのために生まれ、選ばれ、働きました。ヨセフなどはイエス様の命を守るという働きをしただけで終わり、聖書の中から消えて行きます。彼がどうやってイエス様を守ったかを学びましょう。ここには4回も「起き上がる」という言葉が出てきます。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい」(13節)、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」(14節)、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」(20節)、「そこでヨセフは起きて…イスラエルの地へ帰って来た」(21節)。彼には夢のお告げに対する迷いが見られません。迷ったのはマリアが受胎した最初の時だけでした。それ以降、彼は夢のお告げを素直に受け入れて行動しています。彼は愚直までに、夢のお告げ、つまり「神の言葉」を信じる人でした。「愚直」とは「愚かに思えるほど真っ直ぐ、ばか正直、一途」という意味です。私は聖書の神の言葉というのは、そのように聞かなければならないと思います。そうしてこそ初めてキリストの命が守られる、信仰が守られるのではないのでしょうか。最近はそのような信仰をする人が少なくなりました。昔の人たちは「愚直」でした。「絶えず祈りなさい」といわれたら、どうしたらそれができるのかを本気で考え、実行しました。私が榎本保郎牧師が好きなのも、彼の信仰はばか正直で真っ直ぐだからです。だからこそ奇跡のようなおもしろい話が多いのです。信じるというのは信じられないこととの闘いです。楽に信じられる人などいないのです。努力してこそ信じる心が生まれるのです。教会に行く、聖書を読む、祈るという努力をして初めて人は信じられるようになるのです。このヨセフの愚直な信仰に倣いましょう。

③【悪をなくそうとするのではなく、神の力と愛の大きさが見えるようになること】

父なる神様は、ご自分の独り子であるイエス様が迫害されても、すぐに手を下してヘロデを滅ぼすことをしませんでした。イエス様は殺されそうになって逃げ回っています。何でイエス様はこんなに弱いのだろうと思います。それは今も同じです。教会はこの世の力、疫病の力、悪の力の前で何とも無力に見えます。神はなぜ悪を、病いや疫病を滅ぼしてくれないのかと思います。それは、私たちの信仰を試しておられるからではないかと思うのです。
ここを読むと「逃げ」「とどまり」(13節)、「去り」(14節)、「引きこもり」(22節)といった言葉が並んでいます。前に進むだけが信仰ではありません。時が来るまで逃げてもいい、引きこもってもいい、進まないでとどまっていてもいいのだと思います。ヨセフは牢屋の中に2年間閉じ込められていました。モーセもミディアン地方に40年引きこもっていました。パウロも3年間アラビアに退きました。輪ゴムを後ろに引っ張れば引っ張るほど、遠くまで飛びます。ちょうどそれと同じように、後退しているように見える時間が長ければ長いほど、この後前に向かって力強く飛び出すことができるのです。この逃げている時間、とどまっている時間、引きこもっている時間をどのように過ごすのかだと思います。昨年はコロナ感染症で思うように活動ができませんでした。神様によって世界中が「とどまる時間、引きこもる時間」を与えられたのだと思います。今年もそれは続くでしょう。外に出て行きたい、行動したいとウズウズするかもしれませんが、今が大事なのではないのでしょうか。詩編の中で信仰ある人たちは試練が襲ってきても静かに待つと書かれています。「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。」(詩編94:12~13)

●イタリアの北部に一周600ⅿほどの小さな「沈黙の島」と呼ばれるオルタ・サン・ジェリオ島があります。その島には古い教会と70人ほどのシスターが生活するサン・ジェリオ修道院があります。島を石畳の一本の道が巡っており「沈黙の道」と呼ばれています。巡礼に訪れた人が神の声を聞くために静かに散策するための道です。修道院長は沈黙についてこう言っています。「沈黙の中にはたくさんの音があります。沈黙の中で暮らしていると、世界中で起こっているすべての音が聞こえてきます。」彼女たちは沈黙の中で世界を知り、人々の痛みに祈りを献げているのです。

私たちが沈黙するのは、神の音、神の働く音を聞く為ではないのでしょうか。イエス様もここではひと言も語っていません。主は沈黙されています。私たちも沈黙して聖書を読んでみると何かが見えて来るのです。
聖書をよく見て下さい。「ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(15)、「ヘロデが死ぬと」(19)、「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(20)、と繰り返し「死んだ、死んだ、死んだ」と言われています。ヘロデは必ず死にます。神に敵対する者は必ず滅びます。神に勝つことは出来ません。神様はこれらの物語を通して、悪は自滅するから放っておきなさい。どんなに悪の力が強く見えても怖れることはないということを教えているのです。
もっとも大事なことは「悪」をこの世から無くそうと努力するよりも、「神」の力と愛が見えるようになることです。悪をなくすことは不可能です。悪があっても大丈夫、神の方が強いと知ることです。悪の力が大きく見えるならあなたは不安に支配されるでしょう。しかしキリストの力が大きく見えるなら、あなたは平安に支配されるでしょう。この世は悪の力(事件や事故)を毎日毎日TVで放送します。そこには平安と希望はありません。悪の力を見る以上に、キリストの力を見ることに時間と労力をかけなければなりません。平安の秘訣はそこにあります。どうか静まって沈黙に入り、神があなたのために戦っておられる音を聞ける耳が与えられますように。